(※写真はイメージです/PIXTA)
50年連れ添った妻が、私を忘れた日
「あの日、妻は私のことを、完全に忘れてしまいました」
田中和彦さん(75歳・仮名)。視線の先には、50年連れ添った妻、洋子さん(73歳・仮名)。2人はお見合い結婚だったといいます。決して情熱的な恋愛の末に結ばれたわけではありませんでしたが、2人の息子を育て上げ、リタイア後は穏やかで幸せな日々を重ねてきました。2人の趣味は旅行。鈍行列車でゆっくりと旅するのが2人のスタイルで、47都道府県すべてを制覇することを目指していたといいます。アルバムには、少し照れながら寄り添う2人の写真がびっしりと収まっていました。
そんななか、洋子さんに異変が現れ始めたのは、5年ほど前のこと。
「最初は、本当に些細なことでした。『あれ、鍵はどこに置いたかしら』とか、誰にでもあるようなことです。私も『年だなあ』と笑っていました」
しかし、症状はゆっくりと進行。同じことを何度も尋ねる、料理の味付けがおかしくなる、慣れているはずの道で迷う。認知症の診断が下りたのは、3年前のことです。和彦さんの生活は、洋子さんの介護が中心になっていきました。しかし、2人きりの生活は、想像以上に過酷なものだったといいます。夜中に突然叫び声をあげて起き出す洋子さん。「財布がない、財布がない」と大騒ぎしたことも一度や二度ではありません。心身ともに限界を感じた和彦さんは、1年前、洋子さんを介護施設に入所させるという苦渋の決断をします。
「妻を施設に入れるなんて、裏切るような気がしました。本当に悩みましたが、プロにおまかせすることがお互いにいいと言い聞かせて……」
施設に入ってからも、和彦さんは毎日、洋子さんのもとへ通い続けました。たとえ自分のことを認識できない日が増えても、「洋子、来たよ」と声をかけ、手を握ることが和彦さんの日課でした。
あの日も、そうでした。いつものように病室のドアを開け、ベッドに腰掛ける洋子さんに微笑みかけました。すると、洋子さんは怯えたような目で和彦さんをじっと見つめ、震える声で「あなた、誰ですか?」と言ったのです。50年間、毎日呼び続けてきた夫の名を、洋子さんは忘れてしまったのです。そのことに、大きなショックを受けた和彦さん。言葉を失くし、立ち尽くすしかなかった
その後、記憶が戻ったり戻らなかったりする状態を経て、今は和彦さんの名前を呼ぶことはなくなったといいます。
「もう彼女は元に戻らないのでしょうか……」