(※写真はイメージです/PIXTA)
パソコン画面に映っていた「地獄」
「まあ、久しぶり」
息子を招き入れる良子さん。家の中はきちんと片付いていましたが、以前は花で彩られていた庭は雑草が目立ち、家全体に活気がないように感じられました。お茶を淹れながら、必死に世間話を続けようとする母の姿に、健一さんは、何か起きていると確信を強めていました。
その時、良子さんが「あら、お茶菓子を切らしていたわね。すぐそこの角のお店で買ってくるから、少し待ってて」と、どこか不自然に席を立ちました。
一人リビングに残された健一さん。ふと、部屋の隅のデスクで、スリープ状態だったパソコンの画面がふわりと点灯したのが目に入りました。母が慌てて席を立った際に、マウスにでも触れてしまったのかもしれません。そこに映し出された画面を見て、健一さんは息を呑みました。
それは、大手ネット証券の取引画面でした。画面にはおびただしい数のグラフと数字が並び、そのほとんどが燃えるような赤色で「下落」を示しています。そして、画面の右上、最も目立つ場所に表示された「評価損益額」という文字の横に、信じがたい数字が並んでいたのです。
「▲8,573,420円」
健一さんは、自分が呼吸をするのも忘れ、その数字に釘付けになりました。850万円以上のマイナス。これが、堅実だったはずの母の身に起きていることなのか。
そこに、買い物を終えた良子さんが帰ってきました。「お待たせ……」。しかし、健一さんがパソコンの前に立ち尽くしているのを見るや否や、良子さんの顔からサッと血の気が引き、手に持っていた買い物袋が力なく床に落ちました。観念したように泣き始めた母が語ったのは、あまりに悲しい失敗談でした。
きっかけは、世間で盛んに「資産形成」が話題になっていたこと。老後の資産が目減りしていく不安から「自分も何か始めなければ」とネット証券の口座を開設。最初は投資信託で順調に資産が増えたことで自信をつけ、「もっと早く、大きく増やしたい」という欲から、ハイリスクな個別株の信用買いに手を出してしまったといいます。
ビギナーズラックも束の間、株価の暴落で大きな含み損を抱えると、「ここで売ったら損が確定してしまう」という一心で損切りができず、損失を取り返そうと次々に資金をつぎ込む悪循環に陥ってしまったといいます。「家族には迷惑はかけられない」と誰にも相談できず、たった一人でパソコンの画面と向き合い続けた結果が、あの「地獄絵図」でした。
金融広報中央委員会『令和5年 家計の金融行動に関する世論調査[単身世帯調査]』によると、金融資産残高の1年前との増減比較で「減った」と回答したのは70代で26.5%(金融資産保有世帯のみ)。理由として21.0%の人が「株式、債券価格の低下により、これらの評価額が減少したから」と回答しています。
老後の不安から投資に踏み出す高齢者は増加傾向にあります。大切なのは、家族が変化に気づき、お金の話をタブーにせず日頃から対話すること。一人で抱え込ませない環境こそが、こうした問題を未然に防ぐ最大の解決策となるでしょう。
[参考資料]
総務省統計局『家計調査報告(家計収支編)2024年 平均結果』
金融広報中央委員会『令和5年 家計の金融行動に関する世論調査[単身世帯調査]』