(※写真はイメージです/PIXTA)
「お金」か「時間」か…介護の現実に突きつけられる選択
聡子さんが倒れたのは、旅行から帰ってきてからしばらく経ってからのこと。脳梗塞。幸い一命は取り留めたものの、右半身に重い麻痺が残り、医師からは要介護3の診断が下されました。
「まさか、自分より先に妻が倒れるなんて……」
働きづめだった自分よりも、専業主婦として家庭を守ってきてくれた妻のほうが健康だと思い込み、まさか自分が介護をする側になるとは考えたこともありませんでした。
聡子さんが倒れてから2年、田中さんの生活は聡子さんの介護中心。日中はデイサービスを利用しているものの、朝晩の介助はすべて田中さんの役目です。食事、排泄、入浴、そのすべてに手助けが必要な妻を前に、田中さんは増額された年金のありがたみを感じつつも、それ以上に失ったものの大きさを痛感していました。
「月27万円という金額は、経済的な不安を和らげてくれています。でも、そのために失った時間は、もう二度と戻ってきません」
もし、65歳で仕事をやめ、すぐに年金を受け取っていたらどうだったでしょうか。聡子さんがまだ元気に歩き、笑い、自分のことを自分でできていたあの5年間。その貴重な時間を、自分は働くことと、将来のお金を増やすことに費やしてしまった――。
「もっと早く仕事を辞めて、妻と一緒の時間を過ごせばよかった。思い出をたくさん作っておけばよかった」
後悔の念は、日を追うごとに強くなるばかりです。
厚生労働省『2022年 国民生活基礎調査』によると、介護が必要となった主な原因として「脳血管疾患(脳卒中)」は16.1%を占めています。また介護は精神的な負担だけでなく、経済的な負担も伴います。公益財団法人生命保険文化センター『2024(令和6)年度 生命保険に関する全国実態調査」』によると、過去3年間に介護を経験した人の実際に介護にかかった金額は、月8.95万円。自宅での在宅介護の平均は4.56万円、要介護3の平均は8.53万円でした。
また平均介護期間は4.87年。これはあくまでも平均値であり、いつまで続くかわからないのが介護生活。それに伴う経済的負担を、繰下げ受給による増額分が軽減してくれるのは事実です。しかし田中さんは、経済的負担減とは違うところで自問自答を繰り返しているのです。
年金の繰下げ受給は、経済合理性だけをみれば非常に魅力的な制度です。しかし人生は計算通りには進みません。自分や配偶者が、いつまでも健康でいられる保証はどこにもないのです。このとき「お金があっても……」と、後悔する可能性も否定できないのです。
繰り下げるかどうか――自分たちの価値観をしっかり見極めて選択することが何よりも大切です。
[参考資料]
厚生労働省『2022年 国民生活基礎調査』
公益財団法人生命保険文化センター『2024(令和6)年度 生命保険に関する全国実態調査」』