老後の暮らしを左右する年金の受け取り方。選択ひとつで、同じ道を歩んできた人同士にも思わぬ差が生まれることがあります。どのような選択が自分にとって最善なのか――年金制度の仕組みやリスクを知り、納得できる決断をすることが、これからの安心につながります。
え、月17万円でやっていけるのか…〈年金の繰下げ〉を選んだ71歳元同僚「年金1.5倍に増えた」と無邪気な一撃。老後に生まれた「残酷な格差」 (※写真はイメージです/PIXTA)

誰もが「繰下げ受給」を選ぶわけではない

老齢年金は、原則として65歳から受給が始まりますが、本人の希望により受給開始時期を66歳以降75歳までの間に遅らせることができます。これを「繰下げ受給」といい、1ヵ月繰下げるごとに年金額は0.7%ずつ増額されます。鈴木さん、1.5倍に年金が増えたのなら、71歳まで繰り下げた可能性があります。

 

*昭和27年4月1日以前生まれの場合は、繰下げの上限年齢は70歳

 

厚生労働省『令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況』によると、老齢厚生年金受給権者で繰上げ受給を選択したのは25万9,815人で、全体の0.9%。この5年で15万人ほど増えました。一方で繰下げ受給を選択したのは44万5,178人で、全体の1.6%。この5年で20万人以上増えてました。繰上げ、繰下げ、どちらも増加傾向にあり、ライフスタイルに合わせて年金の請求時期を決める人が増えていることが伺えます。

 

またこの結果だけみると、繰下げ受給が選ばれている、と感じるでしょう。しかし大多数の人が依然として65歳から受給を開始しているのもまた事実です。田中さんのように、特別な意識をせず65歳から受給を始めることは、決して少数派の選択ではないのです。

 

では、なぜ誰もが繰下げを選ばないのでしょうか。そこには、単なる増額率だけでは測れない、それぞれのライフプランや価値観が大きく影響しています。

 

鈴木さんと別れ、自宅に帰ってきた田中さん。まだ自身の選択があっていたのか、モヤモヤした気持ちでいたといいます。

 

年金にもう少し余裕があれば、心穏やかに過ごせる時間も増えるのかもしれない。繰下げ受給の制度自体は知っていた。しかし65歳になった当時、田中さんは長年の会社員生活から解放され、とにかく早く肩の荷を下ろしたかった。体力にも自信がなくなり、「いつまで健康でいられるか分からないのだから、貰えるうちにもらっておこう」と考えた。それは、その時点での偽らざる本心であり、合理的な判断だったはずです。

 

大切なのは、増額率というメリットだけに目を奪われるのではなく、デメリットやリスクを正しく理解し、自分自身の人生設計と照らし合わせて考えること。繰下げ受給の最大のデメリットは、言うまでもなく「早死にリスク」です。繰下げ待機期間中に亡くなってしまえば、増額された年金は1円も受け取れません。何歳まで生きれば65歳から受給するより総額で上回るだろう……そのような思考をする人は、そもそも繰下げ受給を選ばないほうが身のためです。

 

また、年下の配偶者がいる場合にもらえる「加給年金」は、繰下げ待機中は支給されないという点も見過ごせません。さらに、年金額が増えれば、それに応じて所得税や住民税、国民健康保険料(または後期高齢者医療保険料)や介護保険料の負担が増える可能性もあります。額面上の増額分が、そのまま手取りの増加に繋がるわけではないのです。

 

「隣の芝生は青く見えるものよ」

 

悶々とした様子の田中さんに、妻がひと言。「妻がそう言っているのだから、自分たちは正しいのだろう」と田中さん。少しだけ気持ちが晴れた気がしたといいます。

 

[参考資料]

厚生労働省『令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況』

日本年金機構『年金の繰下げ受給』