お金をたくさん稼ぐこと、大企業で働くこと、贅沢をすること……周囲の人に羨まれる生活を望む人は多いでしょう。しかし、一度立ち止まってみると、新たな気づきがあるかもしれません。本記事は、大人気ブロガーなにおれ氏の著書『31歳、夫婦2人、月13万円で、自分らしく暮らす。 僕たちが見つけた質素で最強の生き方』(大和出版)より一部抜粋し、再編集しています。なにおれ氏の実体験をもとに、あなたのお金に対する価値観を見直してみましょう。
「社内に苦手な人はいても、ほとんどが悪人ではない」まずまずの年収の大手ホワイト企業だったが…入社4年目の退職で気がついたこと【ミニマリスト・なにおれ氏が解説】 (※写真はイメージです/PIXTA)

ホワイト大手企業からの転職

僕は地方にある3流の私立大学を1年休学して卒業し、当時は地元のメーカーで海外営業として働いていました。地元の会社といってもいわゆる大企業と呼ばれる会社で、今風にいえばホワイトな会社でもありました。新卒でも平均的な年収とボーナスがもらえ、残業はあるけどきちんと残業代は支払われる。社内に苦手な人はいても、ほとんどが悪い人ではない。いま思い返しても、それなりに恵まれた環境で働いていたと思います。

 

それでも社会人4年目には、年収ダウンの転職を決意しました。

 

僕は大学3年生のとき、飲食店のアルバイトで貯めた100万円を握りしめ、1年間の中南米放浪旅行をひとりでしています。そのために夜中まで働いてお金を貯めながら、語学の勉強を必死でしたことが評価され、当時勤めていた会社に就職ができました。そのため配属された海外営業の仕事は、僕にとっては喜ぶべきことだったのだと思います。

 

ですが、僕は自分の心に嘘をついていました。自分の本当の気持ちは見なかったフリをして、世間体や過去の経験に執着してしまったのです。

 

僕は昔から、他人の些細な言動を気にしすぎる性格をしています。そのため、本当は人とあまり関わらずに過ごすことを望んでいたのに、海外の人と密に関わるという仕事を選んでしまったのです。海外旅行をするのと、海外の人と仕事するのは全くの別物です。日本語ですら人と関わるのが苦手なのに、勉強はしたものの大して得意でもない外国語でのコミュニケーションは苦痛そのものでした。

 

また、営業という組織の雰囲気が、致命的に自分には合っていませんでした。

 

それでも必死の思いで面接をくぐり抜けて入社したホワイトな大企業。それなりに恵まれた環境を手に入れてしまったがゆえに、僕は苦しみを自覚しながらも身動きがとれずにいました。大学進学のために借りた250万円の奨学金の返済も、さらに僕の体を硬くしました。正直、心を壊す一歩手前だったと思います。

 

なんとか毎日会社に通うために、服をたくさん買ってストレスを発散したり、友人らともよくお酒を飲みに出かけたりもしました。それでも、どれだけ遊んでも心が軽くなることはありませんでした。息を、深く吸うことができませんでした。

 

「いまの仕事を一生続けるなんて無理だ。でも、仕事を辞める勇気もない……」

 

そんな葛藤を何年も続けましたが、自分の心が限界に近いことには薄々気がついており、年収が下がってもいいからと転職先を探しはじめます。

 

ですが、何社も応募する心の余裕もありません。なんとか1社だけ応募した会社に運よく採用してもらえたので、そのまま逃げるように転職を決めます。

 

それが社会人4年目、27歳のときでした。