戦後、日本人は自由・平和・豊かさを求めて努力を重ねてきました。ところが、それによって生じた弊害もあります。それは昔はなかった、新たな「生きづらさ」です。本記事では、『健康の分かれ道 死ねない時代に老いる』(KADOKAWA)の著者で医師・小説家の久坂部羊氏が、現代社会で精神の健康を保つ難しさについて解説します。
精神の健康を害する社会構造の変化
太平洋戦争の敗北以後、昭和の日本人(私の親の世代)は、自由と平和と豊かさを求めて、懸命に働き、努力を重ねてきました。そこに幸福があると信じたからです。たしかに生活は便利になり、娯楽も増え、楽しい毎日を送れるようになりました。
その一方で、社会構造がさまざまに変化し、新たな「生きづらさ」が発生しています。何事にもよい面と悪い面があるので、状況を改善しても、そのことによる不都合が生じることはなかなか避けられません。
たとえば、封建社会では身分制度があり、人生に選択の自由がなかったので、自分の境遇を受け入れざるを得ませんでしたが、その分、あきらめによる精神の安定がありました。民主的な世の中では、平等と自由が保障されていますから、生まれ持った境遇に甘んじる必要はないかわりに、自己実現の要求や、他人との比較によるプレッシャーなど、精神の不安定を引き起こす危機にさらされます。
グローバル化により、日本特有の終身雇用と年功序列が廃れ、転職の自由と実力主義が優勢になっています。前者は旧弊で不自由ですが、一定の安心感がありました。後者は進歩的で自由ですが、競争原理が持ち込まれるため、能力次第という不安があります。
また、かつては多産多死でしたが、今は少産少死ですから、少子高齢化が問題となり、死が非日常となって、生命の絶対尊重、死の全否定が蔓延したため、悲惨な延命治療などの弊害が生じています(今後は少産多死になるでしょうから、新たな死生観が広がるかもしれません。長生きの負の側面が周知され、長寿礼賛が影をひそめ、私が常々信奉する〝ほどよい死に時〞が称揚される時代がくるかもしれません)。
格差社会の問題もメディア等で採り上げられますが、戦前までの御殿のような豪邸に住み、何人もの使用人を抱え、いち早く自動車や電話を使っていた人と、電気も水道も使えない長屋暮らしの人がいた時代と比べると、現代の格差はかなり縮まっているといえます。しかし、今はすべての人が平等であるという理想が掲げられているので、わずかな差も重大に感じられ、〝体感格差〞が増大しています。
いじめや不登校なども、私が子どものころには社会問題にまではなっていませんでした。いじめっ子はいましたが、「いじめ」という概念が成立していなかったからです。厳しい言い方かもしれませんが、悪口や嘲笑、仲間はずれや無視は、大人になって厳しい現実を生き抜くために役立つ強さや賢さを身につけるための〝試練〞という側面もあるのではないでしょうか。
小学校教諭の知人によれば、これまで「いじめ」の認定には、一定の継続性が含まれていましたが、今は一度でも当人がいやな思いをしたら「いじめ」と認定されることがあるそうです。現実にいじめに遭って苦しんでいる子どもを守ることは、もちろん最優先されるべきですが、将来のことを考えると、社会に出たときに困難に立ち向かったり、自分を立ち直らせたりするノウハウを身につけることができるのかと心配になります。
不登校も私が子どものころにはあり得ない概念で、病気以外で学校を休むという発想そのものがなかったので、いやいやながらでも登校せざるを得ませんでした。私の父は子どものころ、学校に行くのがいやで仕方なく、それでも無理やり行かされていたそうです。それで「不登校が許されると知っていたら、自分もぜったい不登校児になっていた。その意味で最初に不登校をしたやつはえらい」と感心していました。
久坂部 羊
小説家・医師