清少納言に対して「定子」が道長を「例の思ひ人」と呼んだ理由

清少納言は、目撃したことを半ば興奮して定子に伝えた。

大夫殿のゐさせ給へるを、返す返す聞(きこ)ゆれば、「例(れい)の思ひ人」と笑はせ給ひし。

(大夫の道長殿がひざまずかれたことを、何度も何度も申し上げると、「例によって大夫はあなたの御贔屓ね」と、定子様はお笑いになった) (同前)

この定子の言葉「例の思ひ人(いつもの御贔屓ね)」を、額面通りに受け取る者はいまい。もし本当に清少納言が定子と道長との対立を知りながら道長を贔屓にし、日頃からそれを公然と口にしていたのなら、仕える身として緊張感がなさすぎる。清少納言が道長に注目していたのは、むしろ定子への忠誠心からだった。

かたや定子の方では、清少納言の一喜一憂をそのままに受け取っては、中宮として威厳がなさすぎる。それでまぜかえして、いつも道長を気にしている清少納言を〈道長推し〉と笑ったのだろう。それは定子ならではの〈機知〉だった。中関白一家は道隆も定子も日頃から、事実と逆のことを言う冗談がお得意だったのだ。

いずれにせよ、道長は道隆・定子の栄華のもと、その配下に組み込まれながら、独自の道を歩もうとしていた。まさに虎視眈々というにふさわしい雌伏の時期だった。だが、天はその間にも道長に味方しつつあった。定子と清少納言を悲劇が襲い始めるのは、この翌年からのことである。

山本 淳子

平安文学研究者