老年期には老年期ならではの心の変化があります。不安、怒り、ストレス、孤独、無気力……誰もが大なり小なり感じていると思いますが、悪化すると精神面に支障をきたしてしまいます。こうした負の感情とどうやって向き合っていけばいいのでしょうか? 今回は、小川仁志氏の著書『60歳からの哲学 いつまでも楽しく生きるための教養』(彩図社)より、古代中国の思想家の老子が考えた「心穏やかになる方法」を解説します。
無理にさからわず、水のように生きる
人はなぜ心を病むのでしょうか? 最大の原因は無理をするからです。身体もそうですし、物だってそうだと思いますが、本来のキャパシティを超えて酷使すると壊れてしまいます。
心でいうと、本当はやりたくないことを無理にするというのが、一番よくないのです。本来あるべき自然なかたちを大事にする。これは老子の思想の根幹にあるものだといっていいでしょう。だから老子はこういいます。
上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に幾し。(『老子』岩波文庫、P39)
その意味するところは、「物事の最善のあり方は水のようなものだ」ということです。水はあらゆるものに恵みを与えて争うことなく、また誰もが嫌だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ、というわけです。
道というのは、中国語読みすると「タオ」に近い発音になります。いわゆるタオの思想のことです。老子の掲げる宇宙の原理のようなものです。私たちは皆その宇宙の原理にのっとって存在しています。
そういうとなんだか不思議な感じがするかもしれませんが、私はこれを自然法則のようなものとして捉えています。だとすると、水のようにさからわない生き方が道に近いというのもよく理解できると思います。
考えてみれば、私たちが心を病んでしまうのは、人や物、そして世の中にさからうからです。典型的なのは、意見の食い違いでしょう。建設的な議論はいいですが、不毛な言い争いは単に精神を消耗するだけです。目の前に遮る石があるなら、水のようによけて通ればいいだけのことです。何も無理に抵抗する必要はないのです。
年を取ると頑なになりますし、経験から周囲にあれこれいいたくなります。そこをあえて気にしないようにするのが疲れず生きるコツです。若い人とは考え方が違ったとしても、実害がない限り自分は水だと思って、受け流すのがいいでしょう。
満ち足りようとしない
そして何よりさからってはいけないのは、自分自身です。これは意外と気づかないのですが、人生において最もてごわいのは、自分自身です。にもかかわらず、人は自分自身にさからっていることに気がつきません。そうして知らず知らずのうちに心を病んでしまっているのです。
つまり自分の本心に気づかず、無理をしているということです。とりわけ私は、嫉妬、完璧主義、後悔が自分に対する三大無理なことだと思っています。人間は万能ではないにもかかわらず、そうした欲望がその事実を忘れさせるのです。
老子のいうように、道すなわち自然法則を体得していれば、そのようなことはしないはずです。彼はこういっています。
此の道を保つ者は、盈つるを欲せず。夫れ唯だ盈たず、故に能く蔽れば新たに成る。(前掲書、P67)
「この道を体得している者は満ち足りようとはしない。そもそも満ち足りようとしないから、壊れてもまたできあがる」。老子がいいたいのはそういうことです。満ち足りようとしてはいけないのです。なぜならそれは不可能だからです。
自分よりうまくいっている人と同じ状態になりたい。これは嫉妬ですね。でも、そんなことを思っても簡単になれるわけではないでしょう。そもそもなれるなら嫉妬など抱きません。それに、上には上がありますし、欲望は際限のないものですから、嫉妬を抱き始めるときりがありません。
完璧主義はもっと私たちを苦しめます。人間という不完全な存在が、完璧になれるわけがないのです。常に100点満点を目指すことほど苦しいことはないでしょう。それは無理なことです。
後悔というのもまた、無理なことを求めています。済んでしまったことはもう仕方ありません。長く生きてくると、後悔することは増えていきます。それをいちいち思い出して悔やんでいたら、それは日々心を痛めつけるのと同じことになります。
こうした態度を改めれば、心を病むことはないでしょう。いや、人間ですから、失敗はつきものです。時に無理をしてしまい、心を病むことだってあるかもしれません。ただ、満ち足りることさえ望まなければ、少なくとも心は回復していくに違いありません。
老子が、壊れてもまたできあがるといっているように、幸い心には回復する機能が備わっているのです。