身体をいたわれば心も癒される

この時、薬で心を癒そうとする人もいます。それも最後の手段としては必要なのだと思いますが、老子が勧めるのはもっと別の方法です。

それは身体をいたわることです。やはりなんといっても心と身体はつながっていますから、身体を大事にすることで、心も癒されていくのです。少し難しい表現ですが、老子はこんなふうにいっています。

営魄を載せ抱一させ、能く離すこと無からん乎。(前掲書、P45)

これは、「心と身体とをしっかり持って合一させ、分離させないままでいられるか」という意味です。心と身体は車の両輪のようなものであって、両者がしっかりと噛み合わないことには、人は前に進んでいくことはできないのです。

逆にいうと、両者は一体のものであって、いずれか一方が弱れば、もう片方をいたわることで全体が回復するのです。休息は身体にとっても、そして心にとっても最高の薬だと思います。

人間はだんだん年を取るものです。だから自分の衰えに気づきません。何か大きな病気やケガをして初めて気づくのです。あるいは他者から客観的に指摘されて初めて気づきます。でも、その時はたいてい遅いのです。そうならないように、だんだん休息の時間を増やし、その質を高めていくのがいいでしょう。

まだ大丈夫、若い者には負けないといった気概は大事ですが、実は心にとっては大敵なのです。年を取るごとに身体は思うように動かなくなるものです。それはもう仕方のないことです。それこそが自然法則なのですから。だとすると、その自然法則にさからってはいけないのです。

動けなくなるのを実感するたび、人は抵抗しようとあがきます。無理をするのです。一つは悔しいからでしょう。その根底にあるのは、死への抗いなのかもしれません。このままだんだん動けなくなって、最後は死んでしまうのではないかと。無意識のうちにそうした恐れが生じ、無理に動こうとするのかもしれません。

ところが、老子にいわせると、動かないことはむしろいいことなのです。いわゆる「無為自然」という四字熟語で知られる老子の思想の本質です。私たちはつい動こう、何かしようとあがいてしまいますが、本当は動かないどころか、何もしないのが一番いいといいます。それによってすべてのことを成し遂げているからです。

一見矛盾しているかに思える表現ですが、決してそんなことはありません。何もしなくても物事は展開していきます。自然が求めることだけをすればいいのです。

その意味では、まったく動くなということではありません。余計な動きや、無理な動きをしないということです。むしろやりたいのにやらないのは、よくないでしょう。散歩に行きたければ行く、食べたいものがあれば食べる。それが自然な動きであり、無為自然なのだと思います。日々そうした行動を心がけていれば、心を病むこともないでしょう。

年を取って、ある程度身体が病むのはさからえません。どこかにガタが来るものです。それもまた自然なことです。でも、心まで病む必要はありません。

年齢にかかわらず、心はいつまでも健康なままでいられるものなのです。そのためには心がけが重要です。そんな時、中国で長年にわたって受け継がれてきた老子の思想が、言葉の健康法として役に立つに違いありません。さあ、今日も心の求める快適な一日を送りましょう。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者