左大臣家の婿

さて、(えい)(えん)元(987)年12月16日、22歳の藤原道長は時の左大臣・源(まさ)(のぶ)の長女倫子(りんし)と結婚し、その土御門(つちみかど)(てい)(土御門殿(どの))に婿入りした。結婚の日にちまでが伝わっているのは、院政期の藤原頼長の日記『台記(たいき)』に〈吉例〉として引かれているからで、道長夫婦の功績の後代への影響力がわかる(『台記別記』久安(きゅうあん)四〈1148〉年7月3日)。

(しゅうと)の雅信は、娘が求婚された折には「さやうに口わき黄きばみたるぬしたち(あんなくちばしの黄色い奴)」と一笑に付し、迷いもあったものの、いざ道長を家族の一員とするや態度をがらりと変え、彼をことさらに重々しくもてなした。

つまり自分が道長の後ろについたことをはっきりとアピールしたのである。

これには道長の実父である兼家が「まだ官位の低い若輩者(じゃくはいもの)なのに」と恐縮し、道長に左京(さきょう)大夫(のたいぶ)の職を与えたという(『栄花物語』巻三)。

だが道長がこの職に就いたのは、実際には結婚の3カ月前の9月のことだった(『()(ぎょう)補任(ぶにん)』永延元年)。結婚祝いというならば、むしろ二人の結婚直後、永延二(988)年正月29日の人事異動で、道長が権中納言になったことだろう。

それまでの道長は非参議(ひさんぎ)(じゅ)三位(さんみ)で、公卿中の末席にあった。ところが6人を飛び越え、参議を経ずして権中納言に就任したのである。これで権大納言である長兄・道隆(36)の背中も見えてきた。

次兄・道兼(28)に至っては同じ権中納言、官位こそ従二位と道長の従三位より二階級上だが、手の届くところにいる。もちろんこの人事は実父・兼家だけのものではなく、岳父(がくふ)・雅信の〈推し〉も関わっていよう。

政界トップの摂政の息子が源氏の重鎮である左大臣の婿になるとは、こういうことなのだった。

山本 淳子

平安文学研究者