ル・マンで開催されている24時間耐久レースで、91年にマツダが世界初の総合優勝を果たしました。そんななか、低迷を極めていたイギリスにも、スーパーカーの登場により復活の兆しが見え始めます。自国車を押し上げる、自動車メーカーの姿を見ていきましょう。鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、詳しく解説します。
最速の〈マクラーレン〉、セレブに愛される〈ロールス・ロイス〉…1960年代以降、不振続きだったイギリス車が“華麗な復活”を遂げた事情とは【歴史】
不振にあえいだ「古豪」イギリスが息を吹き返したワケ
世界各国の自動車業界をグローバルな再編劇が襲うなか、1960年代以来の不振にあえぎ続けたイギリスに、復活の兆しが見えはじめた。イギリスの活力を象徴するのは、ロールス・ロイスなど歴史の古いメーカーに加え、尖ったスタートアップのような、最先端の少量生産メーカーである。
マクラーレンがホンダをパートナーに選び、F1の常勝軍団になった。創業者、故ブルース・マクラーレンの夢は、そんな最先端の技術を惜しげもなく公道用の車に注ぎ込んだモデルを世に出すことだった。
彼の遺志を引き継ぎ、初めて実現したのが、92年に登場したマクラーレンF1である。車名は、F1で培った技術がこの車に遺憾なく反映されていることに加え、様々な競技規則に縛られた当時のF1マシンよりも速いことを意味していた。98年に生産が終了するまでわずか106台(市販は64台)しか生産されず、無類の車好きで知られる俳優ローワン・アトキンソンもかつてオーナーだった。
マクラーレンF1は、それまで公道用に売られてきたスーパーカーとは様々な面で違っていた。ゴードン・マレーの指揮下、車体は自社製のカーボン(炭素繊維)で作られ、乗車定員は3名、運転席は車体の中央に位置し、その斜め両脇に後席シートが配された。当然ながら左右の重量配分はレース専用車両に近い、理想値になる。エンジンは独BMWから供給された試作品のV12エンジンだったが、マレーは当初、ホンダからのエンジン供給を求め、NSXの「乗りやすさ」を開発のベンチマークにしていた。自身も一台購入し、走行距離は7万5,000キロ近くに達したと言われている。
マクラーレンF1は買った状態そのままで時速386キロ(ギネス記録)出る怪物で、95年のル・マン24時間耐久レースにデビューし、いきなり総合優勝を果たした。3名のドライバーの1人は関谷正徳であり、日本人ドライバー初の総合優勝となった。市販車の最高速度記録は毎年のように塗り替えられるのが常だが、マクラーレンF1が叩き出した記録は、その後10年近く破られなかった。2021年現在も、非ターボ車(自然吸気エンジン車)最速の称号を維持している。そしてスーパーカーのなかでも性能や価格などが全て飛びぬけた車を、ハイパーカーと呼ぶようになった。
伝統のブランド、ロールス・ロイスとベントレーも、それぞれBMWとVWからエンジン供給を受けるようになり、見違えるように復活した。それまでエンジンに掛けていた膨大な開発費を、得意分野である内装や外装に惜しげもなく投じることができるようになった。
初代が1925年に登場し、1990年に一度途絶えた旗艦ファントムは、2003年に登場した7代目が新生ロールス・ロイスの第一号車となった。先代のファントムⅥが68年以降、374台しか生産されなかったのに対し、Ⅶ(7代目)は2017年に生産を終えるまで1万台以上生産され、『インディ・ジョーンズ』や『シンドラーのリスト』の監督スティーブン・スピルバーグや、日本では北野武、志村けんなど、セレブリティが乗る車と認知されている。
イギリスは、大衆車を自前で開発して売る時代に低迷を極め、T1国陥落の危機に瀕したが、個性やキャラ、「圧倒的な何か」を少量受注生産する時代になり、強みを発揮して復活した。F1のチームの多くもイギリスに開発拠点を置いている。課題はもちろん、大衆車を作って大量に売るよりも、地方経済への波及効果が小さいことである。皆が皆、一流の職人になれるわけではないからだ。
大衆車の生産を日産・ルノーやトヨタのような外資に(全面的に)頼る是非も含め、イギリスを依然T1国と呼べるのか疑問もあるが、準T1国に必須の最先端分野を分厚く擁するため、T2国陥落は、当分ないと言えよう。
鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表