日本車の「天下」だった、90年代の国際レース

バブル経済の余韻がまだ残る頃、国際レースの舞台で自動車史に残る偉業を達成したのが、マツダだった。マツダは91年6月、ル・マン24時間耐久レースで日本車初、ロータリー・エンジン世界初の総合優勝を果たした。ル・マンで日本車初完走を果たしたのも、82年のマツダRX-7“254”だ。マツダがル・マンに初挑戦した79年以来、12年越しの悲願が91年に達成された。常連のジャガーXJR12、ポルシェ962、ベンツC11などを2周分の周回遅れにして、チェッカー・フラッグを受けた。

そもそもマツダは競技規則が変わるため、前年の90年に参戦を終えるはずだった。これが1年延期されたため、91年に背水の陣で挑んでいた。787Bの優勝は、レシプロエンジン以外のエンジンが優勝した初めて、かつ唯一の例となり、日系メーカーの初優勝であると同時に、カーボン(炭素繊維)製のブレーキ搭載車が優勝した初めてのレースとなり、「初めて」尽くしだった。次に日本車がル・マンを制するのは、2018年のトヨタTS050ハイブリッドである。

80年代から90年代にかけ、三菱パジェロがラリーの世界で活躍した。トヨタ・セリカも92年から94年にかけてWRCのタイトルを獲得した。これに待ったをかけたのが、95年、ドライバーズ・タイトルとマニュファクチャラーズ・タイトルをスバルにもたらしたインプレッサ555である。スコットランド人コリン・マクレーが駆る555は8戦中、優勝2回、2位2回、3位1回と安定して速かった。2000年にリチャード・バーンズとロバート・リードが駆った車体は、オークションで86万5,000ドル(約9,500万円)で落札されるほど人気だ。

インプレッサは92年、レガシィの車体が大きくなったため、レガシィの高出力エンジンを軽量・小型化した車体に詰め込んで誕生した。コンパクトな車体に強力なエンジンを積んだ初代インプレッサは8年にわたって売れた。優れたパッケージのインプレッサは、三菱と熾烈なWRCタイトル争いを演じることになった。

三菱ランサーは70年代にラリーで活躍していた。そのランサーの車体に、1つ格上のギャランVR-4の強力なエンジンを積んで92年に登場したのが、ランサー・エボリューション(ランエボ)である。ラリーの出走資格を獲得するために限定生産され、宣伝もされなかったが、あっと言う間に完売した。

好評を博したため、94年にはランエボⅡが発売され、95年にⅢ、96年にⅣが登場し、性能を磨き続けた。フィンランド人トミ・マキネンは歴代ランエボを駆り、96年から99年まで連覇を果たした。98年にはランエボVがダブル・タイトルを勝ち取った。翌年にはトヨタ・カローラWRCがタイトルを取り、以降WRCは仏プジョー206、シトロエン・クサラの独壇場になっていった。

栄光の裏で、母国日本はバブル崩壊後の「失われた10年」に突入した。山一證券や日本長期信用銀行の廃業など、それまで不沈艦と思われた大企業が姿を消した。銀行の不良債権処理に追われ、経済成長率は地に落ち、就職氷河期と呼ばれる時代になった。