80年代、日本車はファミリーカーとして発展しただけでなく、レースにおいても活躍を見せていました。その変遷をたどっていきましょう。鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、詳しく解説します。
盗難や襲撃の被害に遭うことも…〈命懸けの過酷さ〉にもかかわらず、世界の名だたる自動車メーカーが「パリ・ダカール・ラリー」にこぞって参戦したワケ【歴史】
日本車、F1の頂点へ
80年代の自動車の開発競争は、国際レースでも佳境を迎えていた。英マクラーレンは、炭素繊維の車体(カーボンファイバー・モノコック)をF1で採用した最初のチームであり、ホンダと契約するまではポルシェからエンジン供給を受けていた。
86年にホンダのエンジンを積んだウィリアムズにタイトルを奪われたのを機に、マクラーレンはホンダと接触し、88年に契約した。アラン・プロストに加え、新ドライバーにアイルトン・セナを迎え、マクラーレン・ホンダMP4の最強チームができあがった。16戦15勝という圧勝だった。ホンダ・エンジンの優位を削ぐため、翌年はターボが禁止されたが、16戦10勝で翌89年を制したのもマクラーレン・ホンダだった。
ただし黄金チームは長く続かず、プロストとセナの不仲もあり、90年にプロストはフェラーリに移籍してしまう。セナは4連覇を果たすも、92年のタイトルを逃し、同年ホンダはF1から撤退した。94年、伊エミリア・ロマーニャGP(イモラ)で、ブラジルの英雄セナは帰らぬ人となった。同年、宿敵プロストも引退し、F1は低迷期に入った。セナが激突したコーナーは改修され、今も献花が絶えない。
ホンダのF1参戦に負うところは大きく、日本でもF1人気が沸騰した。87年に日本人で初めて全戦参戦するレーサーとして、中嶋悟がロータス・ホンダから参戦した。同年、長く開催されなかった鈴鹿のF1日本GPも復活した。
公道のF1と化したWRC
80年代中盤に入ると、市販車の性能競争はありえないレベルで激化した。「古き良き」ゆるいルールのため、WRCの最高峰クラス(グループB)は改造がほぼ無制限に許されていた。各社は外装だけ市販車の形を模し、その内側の車体、エンジン、足回り、ブレーキなど、全てを競技のために専用開発したフル改造の「スペシャル・マシン」を投入した。エンジン(500馬力以上発生)の搭載位置をF1のように車の中央近くに移設したミッドシップ(MR)となり、「市販車のガラを被ったF1マシン」とも呼ばれた。
WRC投入を前提としたメーカー純正の改造車も登場した。ルノー5ターボである。エンジンの搭載位置を車体前部から中央に変更するなど、大衆車ルノー5の中身をラリー向けに根本的に作り直し、81年のデビュー戦、ラリー・モンテカルロを制した。
閉鎖した公道上とは言え、道路脇で観客が観戦し、民家はおろか、壁や看板、標識もそのままである。WRCでいつ重大な死亡事故が起きてもおかしくなかった。
86年の仏コルシカ島、ツール・ド・コルスで、ついに悲劇が起きた。ランチア・デルタはコースを外れて崖を転落、大破炎上した。ドライバーのヘンリ・トイボネンとコ・ドライバーのセルジオ・クレストは即死だった。事故の数時間後、グループBの開発凍結が決定し、翌年、グループBは廃止された。デルタは未舗装路でもわずか2.3秒で停止状態から時速100キロに到達する、怪物になっていた。最新のオートバイはおろか、現行のEVスーパーカーでも難しい加速力である。
なお、ルノー5ターボは、久々に1回限りの復活登壇となったショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンド『ネバーセイ・ネバーアゲイン』に登場している。ボンドを仕留めようとする女殺し屋が駆る5ターボは、オートバイを駆るボンドを尻目に、坂道とカーブが続く街中の狭い道を可憐に駆け抜けていった。