世界で初めてEVの本格的量産車を世に送り出したのは、日本でした。なかでも三菱の「アイミーブ」と日産の「リーフ」は新しい機能を多数搭載することで「新時代の車」となり、人気を博しました。この日本が生んだ量産型EVについて、自動車評論家の鈴木均氏の著書『自動車の世界史』より、詳しく見ていきましょう。
テスラの登場
米国自動車業界の巨人、ゼネラルモーターズ(GM)も無視できないテスラとは、どのようなメーカーなのか。
テスラは2003年7月、米デラウェア州で創業した。08年以降CEOを務めるイーロン・マスクは、テスラが資金調達を進めていた創業2年目に、出資者の一人として貢献した。マスクは98年にオンライン決済会社(後のPayPal)を起業して富を得て、2002年にスペースXを立ち上げたばかりだった。
マスクは南アフリカ出身で、母の親族を頼ってカナダを転々とし、米ペンシルベニア大学で経済学と物理学の学士を得た時点で26歳、その後スタンフォード大学の大学院に進学するなど、遅咲きの人だった。
マスクの自腹も含む資金調達によって、テスラは2006年にロードスターを発表し、08年から生産・販売した。ロータス・エリーゼの車体に(当初は外注、後に内製の)モーターとバッテリーを積み、最高時速200キロ弱、時速100キロ到達3秒強の性能を誇った。米EPAはロードスターの航続可能距離を393キロと発表した。同車は複数のデザイン賞を受賞し、約1,100万円の価格ながら、およそ2,500台が30ヵ国で売れた。この間、マスク以外の創業者たちは取締役の職を去り、訴訟を起こしている。
ロードスターが公道を走るようになってまもなく、2009年にリーマン・ショックの煽りで業績が悪化したGMが国有化され、トヨタと合弁で開設したNUMMIを閉鎖することが決まった。カリフォルニア州知事アーノルド・シュワルツェネッガーまでもがフリーモント工場の維持を働きかけたが実らず、生産車種は他のトヨタ北米工場へ移管された。テスラはこの工場を買い取り、2010年にリオープンした。開所式にはシュワルツェネッガーも駆けつけ、門出を祝福した。彼はロードスターのオーナーでもあった。
ちなみにシュワルツェネッガーは映画『ターミネーター』のキャラどおり、大きくてパワフルな車を愛し過ぎ、自動車史にも名前を残した。米軍用の輸送車両ハンヴィーHMMWVを私用で購入することを熱望、念願叶ってハンヴィーを民生向けに改修したハマーH1の初号機を92年に納車されている。日本で言えば、陸上自衛隊の輸送トラック、いすゞSKWを、特別に個人で購入させてもらうような話だ。
話をテスラに戻そう。大きな工場を格安で手に入れたテスラは、次の一手として、スポーツカーよりも客層が広がる高級セダンを手掛けた。2012年に発売されたセダン、モデルSである。モデルSはスポーティーな高級車の王道、独アウディA6やBMW5シリーズの価格帯を狙った。性能は最高時速260キロ弱、時速100キロ到達は25秒と、スーパーカー並みの動力制動を持ったセダンを仕上げた。
航続可能距離はEPA発表で最長650キロ弱と、ロードスターが試作品の域を出なかったのに対し、「普通の」高級セダンに仕上げた。伝統的とも言えるセダンのカテゴリーのなかで、全く新しい車に乗りたい客層に強く訴える現実的な提案だ。
完成車試験をパスできない車両が大量に工場敷地内に並ぶなど、将来を懸念する声もあったが、その後テスラは売れ筋のSUV、モデルXを2012年、次いでYを19年に発売し、アメリカの西海岸と北欧諸国限定とはいえ、着々とシェアを拡大した。
そして広く普及を目指す最廉価版モデル3が、440万円から710万円の価格で2016年に登場したのである。リーマン・ショックでビッグ3が失速するなか、テスラはアメリカの自動車産業復活の旗を振る存在に成長した。そして中国市場での人気が、テスラをさらに勢いづけるのである。