2007年、日産GT−Rがスポーツカーとして「復活」

2000年代後半、日本勢で気を吐いたのは、日産だった。

1999年に「コスト・カッター」カルロス・ゴーンを迎え、「贅沢品」である日産フェアレディZやスカイラインGT−Rが切り捨てられるのか、と当初は心配された。しかしゴーンは新生Zを2002年に登場させ、コスト削減だけではない車づくりを打ち出した。

Zは08年にモデルチェンジするが、その前年に復活したのが、日産GT−Rだ。正確には、伝統の直6エンジンを積んだスカイラインGT−Rとしての復活ではなく、スポーツ・セダンであるスカイラインを別モデルとして切り離し、純粋なスポーツカー、否、スーパーカーGT−Rとして、新生スタートしたのである。

3.8リッターのV6エンジンは横浜工場で職人の手で組まれ、各号機には職人の名前がプレートに刻まれる。完成車の組み立ては栃木工場だが、スカイラインと一緒のラインで組み立てられる。これは価格を抑えたいゴーンの意向であり、サラリーマンがぎりぎりローンを組んで買える飛び道具が777万円(初代)で提供された。

英『トップ・ギア』誌のGT−R評は、無慈悲に速く、ライバルとなる(フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェなど)スーパーカーを喰うポテンシャルがありながら、一回り以上廉価、というものだ。最高時速は340キロ近くに達する。

GT−Rはエコに逆行しているようにしか見えないかもしれない。しかしF1、WRC、ル・マン24時間耐久レース、サファリ・ラリーなど、「非エコ」に見えるどの世界選手権も技術の最前線を開拓しているのであり、燃費しか追求していないように見えるハイブリッド車の技術も、レースの現場で磨かれた先端技術が降りてきてこそ燃費が向上する。

その後、日産はEVを武器にフォーミュラEに、トヨタはハイブリッドを武器にル・マン24時間耐久レースに挑戦するのである。

リーマン・ショックとGMの首位陥落

2008年9月、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズがアメリカ史上最高の負債総額で経営破綻し、瞬く間に世界的な金融危機となった。ドル安円高のせいで輸出が冷え込み、日本は景気後退に飲み込まれていった。日本車よりも影響が深刻だったのが、米ビッグ3だった。

2000年代になり、ハリウッド・セレブたちがこぞってハイブリッド車に乗り換えるなか、ビッグ3は時代の流れに抗うように伝統的な大きいアメ車を作り続けた。しかし売れ行きが芳しくなく、GMは次々に海外の提携先を切りはじめた。2005年にスバル株をトヨタに売却し、06年にいすゞとの資本提携をトヨタに譲った。なお同年にGMはスズキ株も売却し、スズキはフォルクスワーゲンとの提携が取り沙汰されたが、15年に解消、同年に名物社長、鈴木修も退任している。

GMは傘下のサーブが経営破綻し、ついに09年6月、アメリカ製造業史上、最多の負債総額で経営破綻した。GM株の6割をアメリカ政府、4割をカナダ政府と労組(UAW)が保有する、国有企業として再出発した。リーマン・ブラザーズと並び、「大き過ぎて潰せない」ことの賛否がアメリカで盛んに議論された。バーラ女史が社長に就任するのは、アメリカ政府が保有株を全て売却して債権を回収した直後の、2014年初めである。

2007年当時、GMは世界自動車販売台数でかろうじてトヨタを抑えて首位を死守していたが、リーマン・ショックが襲った08年、ついに首位陥落した。77年ぶりの陥落は、自動車史の大きな一章の終わりであった。GMをはじめアメリカ勢の衰退を見て、自由化よりもむしろ国家による規制と徹底した国家支援に自信を深めたのが、上り一本調子の中国だった。