「産業革命」で生産技術と財力を圧倒的に高めた連合王国(イギリス)。得意の戦争を巧みに繰り広げ、植民地支配を進めていきますが、その身勝手な行動により、ついに植民地による反発が起こります。立命館アジア太平洋大学(APU)学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、当時の状況をくわしく見ていきましょう。
〈産業革命〉で一気に強国化!…「戦争で領地拡大」を“お家芸”としていた連合王国が〈アメリカ独立戦争〉で敗北を喫したワケ【世界史】
ワーカホリックな雍正帝の跡取りは贅沢を極めた
このころ、中国は乾隆帝の時代です。ワーカホリックな雍正帝の跡を継いだ乾隆帝にはお金がたくさんあって、ぜいたくを極めた皇帝でした。中国南部を巡る贅沢な大名旅行を6回もやりました。
大名旅行の道中には、おいしいものが欲しいですよね。そんな気持ちを忖度する人が山ほどいたので、「満漢全席」ができました。満洲族と漢民族のよりすぐったごちそうをすべて集めるという豪華な中国料理の原点です。
1757年、乾隆帝は外国との交易を広東の広州一港に絞りました。中国のお茶が欲しい連合王国は不満でしたが、中国の方が国力は強かったので従うしかありません。そして1763年の調査で初めて、中国の人口は2億人を突破します。雍正帝の時代には1億4,000万人ほどでした。
連合王国のお家芸は「一気に倒さず、仲間割れを誘う」
七年戦争のときに連合王国は、インドからフランスを追い出していましたね。その後、連合王国の東インド会社が、どんどんインドを攻めていきます。東インド会社は軍事権と外交権を持っていましたね。1765年にムガール朝を負かすと、南インドのマイソール王国と戦端を開き、4回にわたって戦争します。さらにデカン高原を巡ってマラーター同盟と戦端を開くと、こちらも3回にわたって戦争します。
東インド会社が、同じ相手と3回、4回と戦っているのはなぜでしょうか。最初にちょっと勝つと、いったん戦争をやめてしまうからです。連合王国には近代的な大砲があるので、戦争をすれば最初は勝ちます。
けれど、相手は兵隊の数が多くて必死に抵抗しますから、こちらにも損害が出ます。そこで戦争をやめてしまうと、相手は内輪揉めを始めます。負けているわけですから、誰のせいかといった責任追及が始まるわけです。
そうやって相手が仲間割れを起こすと、弱い方に肩入れします。それからまた戦争を仕掛けるということを繰り返すと、相手は消耗していきます。全力を挙げたら一気に倒せるかもしれないけれど、こちらの怪我も大きくなる。そういう無理はしないで、少しずつたたいていって、損害を最小限に抑えるわけです。「分割して統治せよ」という言葉があります。
連合王国はこれがめちゃうまくて、お家芸なんですね。
人口3億人を突破した中国は、連合王国を相手にせず
中国ではさらに人口が増えて、1790年に3億人を突破します。これは16世紀後半にアメリカ大陸が原産のトウモロコシやジャガイモ、サツマイモといった、収穫量が多い作物が入ってきたからです。
1793年には、連合王国のマカートニーという使節が乾隆帝に会うことを許されます。マカートニーは「もっと港を開いてください。広州だけではお茶も絹も十分に手に入りません」と懇願します。けれど乾隆帝は「会ってやるだけで感謝しろ」といった態度です。
連合王国には中国から輸入したいものがたくさんありましたが、中国には海外から輸入したいものなどなかったからです。だから対等な貿易なんて考えられなかったわけです。この時期になってもまだ、それくらいの格差が中国とヨーロッパの間にあったということです。
乾隆帝の治世は長く、その間に政治は堕落していきました。