18世紀、ヨーロッパでは女性もトップに立ち、国を治めました。その代表格ともいえるのがオーストリアのマリア・テレジアでした。戦争、同盟、政略結婚……あの手この手で行われる勢力争いのなか、オーストリアは敵対するフランスと「ヴェルサイユ同盟」を結び、世界を驚かせました。立命館アジア太平洋大学の特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、18世紀のヨーロッパの覇権争いを詳しく見ていきましょう。
領土を奪われ怒りの「外交革命」→娘のマリー・アントワネットを敵国フランスへ嫁入りさせた〈マリア・テレジア〉の目を見張る“女傑ぶり”【世界史】
ピョートル3世にロシア人激怒→ドイツ人のエカチェリーナ2世が即位
1760年、ロシア軍がプロイセンの首都ベルリンを占領します。プロイセンの運命は風前の灯火となって、フリードリヒ2世は自殺を考えます。
ところが、エリザヴェータが急死して、ピョートル3世が皇帝になります。奇跡です。
エリザヴェータは独身だったので、姉の子のピョートル3世を後継者にしていました。けれど、ドイツにいたピョートル3世を、サンクトペテルブルクに連れてきて初めて会ったとき、エリザヴェータはがっかりしたと伝えられています。「この子ではとても皇帝は務まらない」と。そこで「早く結婚させて、孫に継がせよう」と思うわけです。
エリザヴェータには早世した婚約者がいました。その妹の娘のエカチェリーナをドイツから連れてきて、ピョートル3世と結婚させます。そして、孫のパーヴェル1世が生まれると、すぐに親から取り上げて、早くピョートル3世をクビにしてやろうと思っている最中に急死したというわけです。だからピョートル3世が即位しました。
ピョートル3世はドイツ人で、フリードリヒ2世を崇拝していました。だから軍を引いてしまいます。
ベルリンからの撤退に、ロシア軍は激怒しました。苦しい戦いの末に、せっかくベルリンを占領したのに、ピョートル3世は、賠償金も取らずに勝手に引き返せと命じたわけですから。「仲間の死は犬死にか」と激怒してクーデターに発展します。
それをじっと見ていたのがピョートル3世の妻、エカチェリーナです。彼女はめちゃ賢くて、ロシア語を熱心に勉強して、ロシア人の心をすぐにとらえてしまいました。そしてクーデターの先頭に立ってピョートル3世を幽閉すると、エカチェリーナ2世として即位します。エカチェリーナ2世もドイツ人で、ロシア人の血はまったく流れていません。それでもロシアを見事に治めます。
マリア・テレジアの執念が裏目に出て、ドイツ諸侯の心が離れる
ロシア軍が引いて七年戦争は終わり、パリ条約が結ばれました。シレジアは結局、ハプスブルク家には戻らず、マリア・テレジアはまたも苦汁をなめます。しかも、シレジアにこだわったマリア・テレジアが、これまで不俱戴天の敵としていたフランスと組んだことに、ドイツ諸侯はどこか納得できません。結果として、ドイツ諸侯の心は少しずつオーストリアのハプスブルク家から離れ、プロイセンに移っていくことになります。
インドと北米に兵力を集中した連合王国の賢さ
七年戦争の構図は、「オーストリア・フランス・ロシア」対「プロイセン・連合王国」です。連合王国は、プロイセンの側についたわけですね。けれど、連合王国は、「プロイセンは遠いので兵隊を送れません」といって、プロイセンにお金を渡すだけ。「代わりに植民地で敵をやっつけます」と、ひたすらインドと北アメリカに兵力を集中させました。こうしてフランスの権益を奪っていったわけです。
連合王国は、1757年にプラッシーの戦いでフランス軍を破ってインドから追い出します。さらに、北米でもフランスと戦争して勝ち、ミシシッピー川より東に広がる北米大陸の土地をほぼすべて分捕ってしまいました。やはり連合王国は賢い国です。
出口 治明
立命館アジア太平洋(APU)学長特命補佐