18世紀、ヨーロッパでは女性もトップに立ち、国を治めました。その代表格ともいえるのがオーストリアのマリア・テレジアでした。戦争、同盟、政略結婚……あの手この手で行われる勢力争いのなか、オーストリアは敵対するフランスと「ヴェルサイユ同盟」を結び、世界を驚かせました。立命館アジア太平洋大学の特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、18世紀のヨーロッパの覇権争いを詳しく見ていきましょう。
領土を奪われ怒りの「外交革命」→娘のマリー・アントワネットを敵国フランスへ嫁入りさせた〈マリア・テレジア〉の目を見張る“女傑ぶり”【世界史】
パワーバランスを絵に描いたようなオーストリア継承戦争
次はオーストリア継承戦争です。1740年、オーストリアのハプスブルク家でマリア・テレジアが即位します。同じ年にプロイセンではフリードリヒ2世が即位します。
プロイセンのフリードリヒ2世は結構こすっからくて、どさくさに紛れてハプスブルク家のシレジアを占領します。シレジアは、ポーランドにありますが、ハプスブルク家の領土でした。フリードリヒ2世は、オーストリアのマリア・テレジアが女性なので見くびって、シレジアを横取りしちゃったわけです。ここにオーストリア継承戦争が起こります。
プロイセンの動きに乗じて、ザクセンやバイエルンなど、ドイツのほかの諸侯も「この機会に、みんなで領土を分捕ってやろう」と、ハプスブルク家に戦争を仕掛けてきます。
フランスのブルボン家は、ハプスブルク家を目の敵にしていますから当然、プロイセンに味方します。これに対して、あまりフランスが大きくなってしまったら困るのは連合王国です。そこで連合王国がハプスブルク家と組むと、それにネーデルラントも味方します。パワーバランスを絵に描いたような戦争ですね。
見くびられたマリア・テレジアですが、一歩も引かず、オーストリア継承戦争は結局、8年も戦った末に、戦争が始まった時点の状態に戻すという約束で終わります。1748年のアーヘンの和約です。
シレジアはプロイセンが占領したままです。これにマリア・テレジアは激怒しました。「8年頑張って、自分の領土を守ってきたのに、シレジアは取られたまま。私が女性と見くびって、即位するやいなや攻め入ったフリードリヒ2世を許すものか」と。
マリア・テレジアが実現した「外交革命」
激怒したマリア・テレジアは、こう考えました。「そもそも、フランスがいつもうち(ハプスブルク家)に盾突くからこんなことになるんだ。ならばいっそ、フランスと同盟を結んだらどうか。プロイセンはいちころじゃないか」。そこでカウニッツという宰相を使って、凡庸なルイ15世に近づきます。
ルイ15世はガールフレンドのポンパドゥール夫人のいいなりでした。マリア・テレジアは、カウニッツを介して、ポンパドゥール夫人に訴えます。「女性を見くびって攻めてきた卑怯なプロイセンを、あなたは許せますか」と。夫人は「ひどい男ね。ルイ15世に伝えておくわ」と応じます。ポンパドゥール夫人は、ルイ15世を手のひらの上で転がせます。フランスもちょうど、連合王国に近づくプロイセンに不信感を抱き始めていました。
両国はヴェルサイユ条約を結び、フランス・オーストリア同盟が成立します。これは外交革命といわれました。オーストリアとフランスという不俱戴天の敵が手を結んだので、ヨーロッパ中が仰天したのです。その同盟の帰結として、マリー・アントワネットがフランス王家に嫁ぐことになりました。
マリア・テレジアの執念は、ロシア皇帝エリザヴェータも動かす
このころ、ロシア皇帝もエリザヴェータという女性でした。マリア・テレジアはエリザヴェータにも「女性をばかにするなんてプロイセンは許せないわよね」と働きかけて、味方につけます。こうしてオーストリア・フランス・ロシアが手を組み、プロイセンと敵対します。一方、プロイセン側につくのは連合王国です。こうして七年戦争が始まります。マリア・テレジアの執念はすごいですね。