平成元年である1989年は、今も語り継がれる、多くの「名車」が誕生した年でした。その背景には、当時の日本の社会情勢が色濃く反映していたと、自動車評論家である鈴木均氏は言います。鈴木氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、平成初期の自動車産業について見ていきましょう。
当時で〈1台800万円〉のホンダ「NSX」、日産〈シーマ〉、マツダ〈ロードスター〉…日本を代表する〈名車〉の誕生が「平成元年」に集中した“特別な事情”とは【歴史】
日本車は、世界的な車づくりの方向性に影響を与える存在に
ロータリー・エンジンを搭載したRX-7を擁するマツダは、異なるアプローチを選んだ。オープンルーフのスポーツカーは特に北米で多く流通していたが、どれも車体が大きくて重く、運転を楽しむよりも「見せびらかす」ものに近かった。ユーノス・ロードスターは小型車ファミリアに近いサイズの小さな車体に、ファミリーカー向けのエンジンをほどよく出力アップさせ、純粋に運転を楽しむための車として開発された。
車高が低くて狭い、2人乗りの車内に乗り込む所作は、茶室に入るイメージでデザインされた。マツダ・ロードスターは登場するやいなや日米欧で飛ぶように売れ、世界各地に輸出され、最も生産された2人乗りのオープン・スポーツカーとして、ギネス記録を現在も更新中である。
日本車は、単に「よくできた、お値頃価格のファミリーカー」を脱し、世界的な車づくりの方向性に影響を与える存在に成長した。バブル経済が戦後高度成長の総決算だったとしたら、その有り余る経済力は、このようなモノづくりの高度化にターボをかける役割を果たした。
89年には、この他にも、リトラクタブル・ライトを採用しミッドシップでエンジンを搭載するトヨタMR2(2代目)、これに対抗する日産シルビアの姉妹車180SX、そして北米仕様の出力が日本車で初めて300馬力に達した4代目の日産フェアレディZなどが登場した。
昭和の終焉に巻き起こった「不謹慎な」馬力競争は警察庁と運輸省に目を付けられ、以降、2004年まで国内馬力自主規制(上限280馬力)が敷かれることになり、速度計の表示(と速度リミッターの作動)も時速180キロとされた。なお、欧州ブランドなどの輸入車は適用外だった。
そして、スバル・レオーネの後継として89年に登場したレガシィ・ツーリングワゴンGTが、新しいジャンルを拓いた。220馬力を発生するボクサー(水平対向)4エンジンで武装したGTは、家族全員を窮屈なスポーツカーに詰め込むわけにいかない(けれど半端なスポーツカーには負けたくない)お父さんたちにウケた。91年に登場したボルボ850、スカイライン譲りのエンジンで武装した日産ステージア(96年)と共に、90年代をとおしてヒットした。スバルは北米でボルボのシェアを食って市場を拡大し、現在のポジションを獲得した。