紫式部と藤原道長、2人の物語で話題を呼んでいる大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。歴史の教科書に載っている貴族たちも次々に登場し、権謀術数渦巻く貴族政治を繰り広げます。ドラマで吉高由里子さん演じる“まひろ”はのちの紫式部。彼女の遺した『紫式部日記』を紐解くと、道長の娘・彰子に仕えた宮中の日々が明らかになっていきます。本稿では、歴史研究家・歴史作家の河合敦氏による著書『平安の文豪』(ポプラ新書)から一部抜粋し、紫式部の生涯について解説します。
宮中の陰湿な職場環境
冒頭で述べたように、『源氏物語』は天皇の後宮におけるいじめの描写から始まる。じつはこれ、紫式部の実体験だったと思われる。
紫式部は、一条天皇の中宮・藤原彰子の女房として30代前半に宮仕えを始めたとされる。彰子は、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の長女である。
紫式部に期待されたのは彰子に教養をつけること、つまり教育係としての役割だったと思われる。
ただ、彰子の女房は20人ほどいたが、出身階層は一様ではなかった。
「道長・倫子夫妻が集めてきた女房集団は寛弘五年(1008)敦成親王(後一条)誕生時に役をつとめた讃岐宰相君(藤原豊子、道長兄藤原道綱女)、大納言君(源廉子、倫子兄弟源扶義女)、小少将君(倫子兄弟源時通女)など、ともに倫子の従姉妹で『やんごとなき』公卿(現在の閣僚)クラスの娘や、紫式部や同年代の和泉式部など評価の高い作家や歌人、さらにそれより若い世代だが数代続く和歌の名門で文学界の重鎮、大中臣輔親を親に持つ伊勢大輔など」(服藤早苗・高松百香編著『藤原道長を創った女たち〈望月の世〉を読み直す』明石書店)だという。
とあるように、彰子の女房集団は、道長・倫子の親戚を含む公卿クラスの娘(上﨟女房)と紫式部のような中・下級貴族の才女が混在していたうえ、さらに年齢層も幅広かったのだ。
とくに紫式部は、道長の招きで彰子に仕えたという経緯があったため、当初から上﨟女房たちに鼻持ちならない女だと思われ、女房たちは新入りの紫式部を無視した。
これに閉口した紫式部が、仲良くしてくれるよう歌を送ったが、彼女たちからは返事すら来なかった。このためメンタルを病んだ紫式部は実家へ戻り、そのまま5カ月間も出仕できなくなってしまった。
こんな話もある。彰子が初産を終えて実家から宮中へ戻るさい、これに付き従った紫式部は、馬の中将という上﨟(じょうろう)女房と同じ牛車になった。すると彼女は、「わろき人と乗りたり(嫌なヤツと乗ることになった)」と不快感をあらわにしたのだ。
また、あるとき一条天皇が『源氏物語』を女房たちに朗読させていたが、急に冗談で「これを書いた人は、私に日本書紀(日本紀)を読んでくれないかな。講義できるだけの教養がありそうだ」といった。
すると、これを聞いていた左衛門の内侍(天皇付きの女房)が殿上人たちにそれをいいふらしたので、紫式部は「日本紀の御局(女房)」というあだ名をつけられてしまったのだ。
この左衛門の内侍は、紫式部を目の敵にし、あることないこと陰口をいいふらす女であり、紫式部自身もうんざりしていたと『紫式部日記』で告白している。
何とも陰湿な職場である。そもそも宮仕えなど、まともな貴族の女性がする仕事ではないと思われていた。それに関しては、清少納言の項で触れたので繰り返さないが、どうして紫式部は、この世界に飛び込んだのだろうか。
そのあたりの事情について、生い立ちも含めて簡単に述べていこう。
河合 敦
歴史研究家/歴史作家