落ちぶれた老後

「この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたる」

と閑居している間に、自分が見たことや思ったことを、自由に書き連ねたのだという。だが、源経房が清少納言のところを訪れたさい、この草子を見つけてそのまま持ち帰り、人の目に触れるようになった。かくして『枕草子』は、貴族の間で大変な評判となり、清少納言の名を知らぬ者はいないほどになったのである。

しばらく里に引っ込んでいた清少納言だったが、誤解が解けたようで、再び定子に呼び戻された。

一条天皇は定子を心底愛しており、出家した彼女を還俗(僧の資格をはく奪して俗人に戻す)させて寵愛し、娘が誕生、さらに皇子(敦康親王)が生まれた。だが、長保二年(1001)に次女を出産した翌日、定子は25歳の若さで死去してしまった。

清少納言の宮仕えもここで終わったといわれる。仕えたのはおよそ7年であった。その後は30代のときに70歳を超えた藤原棟世(むねよ)と再婚し、娘・小馬命婦(こまのみょうぶ)を産んだが、まもなく棟世は亡くなり、晩年は兄の致信(むねのぶ)と同居していたという。

しかし致信が寛仁元年(1017)に争いに巻き込まれて殺されてしまい、その後は各地をさまよう落ちぶれた生活を送ったと鎌倉時代の書物などに記されている。だが、それほど豊かな老後ではなかったかもしれないが、まだ子供たちが健在だったので落魄(らくはく)したというのは、単なる伝承に過ぎないようだ。死去は万寿二年(1025)頃とするのが有力である。

いずれにせよ、華やかな宮廷生活は2年程度に過ぎず、あとは定子一族が落ちぶれていく時期であったが、研究者が口をそろえて述べているように『枕草子』には、そうした悲壮さや悲しみはまったく感じられない。極めて明るい希望に満ちた、にやりと笑みがこぼれるような話が多い。ぜひ一度みなさんも全編を読破してみると良いかも知れない。

河合 敦

歴史研究家/歴史作家