オンリーワンではなく、ナンバーワン

だが、同じく宮仕えをした紫式部は、清少納言が知識をひけらかすことが面白くなかったようで、「大したことがないのに利口ぶっている」と悪口を言っている。

しかし紫式部が宮仕えした時期にはもう清少納言は引退しており、宮中で二人が顔を合わせる機会はなかったといわれている。

ちなみに清少納言の栄達は、生来の負けん気の強さも関係しているように思える。

あるとき、清少納言が柱にもたれかかって女房たちと雑談していると、いきなり定子が紙を投げてよこした。それを開けてみると、

「思ふべしや、否や。人、第一ならずはいかに(あなたのことを愛してあげようか。でも一番じゃなければだめですか)」と書いてある。

じつはかつて清少納言は、

「すべて、人に一に思はれずは、何にかはせむ。ただいみじう、なかなか憎まれ、あしうせられてあらむ。二、三にては、死ぬともあらじ。一にてを、あらむ(すべて人から一番だと思われなければ嫌だし、意味がない。一番になれないのなら、みんなから憎まれたほうがいい。二番や三番になるくらいなら死んだほうがまし。とにかく一番でいたい)」

などといっていた。どうやらこのように、清少納言が日ごろから「オンリーワンではなくナンバーワンになりたい」と豪語していたのを定子がからかったらしい。

そんな強気な女性だったから、紫式部も嫌悪感を覚えたのかもしれない。

宮仕えからわずか半年後、関白・道隆が建立した寺の供養が盛大になされた。このとき中宮・定子も列席し、清少納言ら女房たちも参列した。清少納言は、定子の側近女房である中納言の君と宰相の君と同座しており、一番ではなかったが、短期間に特別な扱いを受けるようになったことがわかる。

執筆の動機

この翌年、清少納言の宮仕えは暗い影を帯びていく。長徳元年(995)、関白の道隆が43歳で病気で亡くなってしまったのである。

道隆は跡継ぎの伊周を何とか関白にしたいと考え、伊周自身も一条天皇に自薦したが、まだ20代前半だったこともあり、道隆の死後、その弟の道兼が関白に就いてしまった。ところが、道兼は半月もしないうちに感染症で死んでしまう。

前年から病が広まり、主だった公卿(現在の閣僚)14人のうち8人が感染死していた。

道兼の死後は、道隆の弟・道長(伊周の叔父)が右大臣に昇進、伊周を差し置いて氏長者(藤原氏の当主)となった。納得できない伊周は大いに反発し、二人は激しい口論をするなど対立した。その後伊周が、花山法皇と揉め、弟の隆家に命じて法皇に矢を射かける事件を起こし自滅したことはすでに述べた。結果、伊周は左遷され、定子も出家を余儀なくされた。

この大変な時期、清少納言はどうしていたかというと、じつは里に引きこもってしまったのだ。彼女は道長一派ではないかと疑われ、定子のもとを離れざるを得ない状況になっていたらしい。

『枕草子』を本格的に書き始めたのはこの時期ではないかといわれている。これ以前、兄の伊周から大量の紙(草子)をもらった定子が、清少納言に「あなたにあげましょう」と下賜してくれたのが執筆動機になったようだ。