取り替え可能な機能的人材から、唯一無二の個性的人間へ

有能な働き手であった人ほど、組織のもつ評価軸上で高評価が得られるような働き方に徹してきたはずである。評価される人材としての自分を一生懸命に生きてきたと言ってよいだろう。

そのような人は、自分の気持ちや欲求を無視して、ひたすら効率的かつ生産的な毎日を送ってきたに違いない。ときに趣味人として充実したプライベート生活を楽しんでいる同僚を羨ましく思うことがあっても、そんな思いは即座に抑圧し、有能な機能的人材としての道を歩んできたのだろう。

でも、定年退職を迎える頃には、そのような機能的人材は簡単に取り替えがきくものであったことに気づく。自分が退職しても、代わりにその機能を担う人材がいて、組織には何の支障も生じない。そんな自分と違って、趣味人として充実したプライベートを楽しみながら仕事生活をこなしてきた人物は、けっして取り替えのきかない個性的な人生を送っている。

仕事一筋に生きてきた人ほど、そのことに気づいたときに受ける衝撃は大きい。いとも簡単に取り替えがきく人材に過ぎなかった自分。そんな自分の立場を意識することで、虚しさが込み上げてくる。

これまでの仕事人生は何だったのだろうといった思いが脳裏をよぎる。これまでの自分の仕事人生すべてが無意味に思えてくる。

だが、それは人生のステージが変わったために起こる価値観の揺らぎであって、以前のステージでは大いに意味のある生き方をしていたのである。ステージが変わることによって、人生の選択肢が増えたため、これまでは我慢しなければならなかった生き方に堂々と踏み出せる立場になった。それで以前の生き方が色褪せてしまうのだ。

私たちは、言ってみれば多面体である。さまざまな欲求をもっている。

仕事で成果を出して有能さを発揮したいと思う自分もいる。何物にも縛られずに自由に漂いたいと思う自分もいる。でも、生きていくうえでは生活の糧を得る必要があるので、後者の欲求は抑圧し、前者の欲求充足のために仕事を頑張るしかない。

仕事で成果を出して周囲から認められたいという欲求のほかに、好きな音楽をやって暮らしたいという欲求を抱えている人も、多くの場合、後者の欲求は抑圧し、せいぜい週末に趣味として楽しむくらいにして、前者の欲求充足のために仕事に集中するしかない。

生活の糧を得るために、元々多面体である自分を一面的に封じ込めなければならない。それが定年までの仕事生活である。そんな封じ込めていた多面体の自分をいよいよ解放し、これまで抑圧してきた欲求を前面に掲げるチャンスが訪れたのである。

それは、まさに「自己実現」への道が開かれたとみなすべきではないだろうか。

榎本 博明

MP人間科学研究所

代表/心理学博士