定年後、夫婦で過ごす時間が増えると、現役時代には気づかなかった問題が表面化することがあります。仕事を終え、ようやく自由な時間を手に入れた夫。一方で、家事や身の回りの世話を担ってきた妻にも、自分の時間を楽しみたいという思いがあります。夫婦で温泉旅行に出かけるような何気ない場面にも、定年後の暮らしを考えるヒントが隠れています。※本記事に掲載している事例は、プライバシー保護および情報の一般化のため、実際の相談事例をベースに一部の数値や設定を変更・再構成したモデルケースです。
「私はあなたの母親じゃない!」〈退職金1,800万円〉〈年金月18万円〉66歳夫、定年後の温泉旅行で妻から三行半を突きつけられたワケ ※写真はイメージです/PIXTA

「夕飯は何時だ?」…温泉旅行でも妻を頼りきる夫

「夕飯は何時だ? もう行っていいのか?」

 

温泉旅館の部屋で、夫からそう尋ねられたとき、65歳の久美子さん(仮名)は、思わず返事をするのをためらいました。

 

夫の高橋浩さん(66歳・仮名)は、1年前にメーカーを定年退職しました。退職金は1,800万円。年金収入は月18万円ほどあり、住宅ローンも完済しています。日々の暮らしに大きな不安はなく、浩さんは退職後の楽しみとして、夫婦で温泉旅行に出かけることを考えていました。

 

現役時代は仕事が忙しく、まとまった休みを取るのも簡単ではありませんでした。これからは時間を気にせず、行きたい場所へ出かけられる――そんな生活を思い描いていたのです。

 

今回の旅行も、浩さんが久美子さんを誘ったことから決まりました。ところが、宿を探して予約したのも、交通手段を調べたのも、旅行の日程を組んだのも久美子さんでした。出発前には着替えや洗面用具を用意し、天気予報を確認して荷物を整えました。

 

浩さんは、妻が手際よく準備を進めてくれることをありがたいと思っていました。しかし、自分で宿の予約状況を確認したり、列車の時刻を調べたりすることはありません。妻が何とかしてくれると思っていたからです。

 

旅館に着いてからも、浩さんは「大浴場は何時まで入れるんだ?」「食事の場所はどこだ?」「明日は何時に出るんだ?」と、次々に久美子さんに尋ねました。館内の案内を見ればわかることも、妻に聞けば済むと考えていたのです。

 

久美子さんは、そのたびに案内を確認し、夫に説明しました。せっかく温泉に来たのだから、ゆっくり湯につかり、料理を味わいたい。けれど、夫の質問に答えているうちに、気持ちは落ち着きませんでした。

 

「疲れました。私は旅行中もずっと夫の世話をしている。家にいるときと何も変わらないと思いました」

 

観光庁『令和7年版観光白書』によると、今後増やしたい宿泊旅行として「温泉」を挙げた人の割合は、70代で51.1%に上りました。温泉旅行は、年齢を重ねてからの楽しみの一つです。だからこそ、夫婦で出かけた時間が一方にとってだけ楽しいものになってしまえば、すれ違いも際立ちます。

 

夕食の時間が近づき、浩さんがまた「夕飯は何時だ?」と尋ねたとき、久美子さんの我慢は限界に達しました。

 

「私はあなたの母親じゃないのよ」

 

思いがけない言葉に、浩さんは戸惑いました。自分は旅行に誘い、費用も出している。妻に苦労をさせようと思ったわけではありません。なぜ、そこまで言われなければならないのか。すぐには理解できなかったといいます。