「年金は受け取りを遅らせるほど増えるから、できるだけ待ったほうが得」――そう考えて繰下げ受給を選ぶ方が増えています。しかし繰下げは、メリットばかりではありません。受給を待っている間に本人が亡くなると、増えるはずだった年金を受け取れないばかりか、本来の年金の一部まで消えてしまうことがあるのです。さらに、遺された配偶者の年金の受け取り方にも思わぬ落とし穴が…。年金問題に強い特定社会保険労務士のゆかねぇ先生が、実例をもとに解説します。※個人の特定を避けるため、情報の一部を脚色しています。
「年金が増えるって聞いたから繰下げを選んだのに…」年金の繰下げ受給を待っていた72歳夫が急死。68歳妻が失った〈本来もらえたはずの年金400万円〉【社労士が解説】 (※写真はイメージです/PIXTA)

なぜ亡くなった夫に「繰下げみなし」は使えないのか?

このケースの最大のポイントは、「繰下げはあくまでも本人の意思表示によって成り立つ」という点です。

 

65歳から受け取らずに待っていた年金を受け取る方法は、大きく2つあります。

 

1つは「繰下げます」と申し出て、待った月数に応じて増額された年金を受け取る方法(繰下げ申出)。もう1つは、繰下げをせずに、65歳からの本来の年金をさかのぼって受け取る方法(本来請求)です。65歳からの本来の年金は、要件を満たしていれば法律上当然に発生している権利ですが、繰下げは本人が意思表示をして初めて成立します。

 

仮に誠さんが亡くなる前に、72歳0か月で繰下げを申し出ていれば、増額率は58.8%。年金は年約318万円に増えていました(【図1】(1)参照)。しかし、亡くなった誠さんには、もうその意思表示ができません。残された道は、本来の年金をさかのぼって受け取る方法だけです。

 

ここで立ちはだかるのが、年金の時効です。年金を受け取る権利は5年で時効を迎えるため、さかのぼって受け取れるのは原則として請求時点から5年分まで。それより前の分は受け取れなくなります。

 

この時効の問題に対応するためにできたのが、令和5年4月に始まった「特例的な繰下げみなし増額制度」(以下「特例的な繰下げみなし」)です。令和4年4月に繰下げの上限年齢が70歳から75歳に引き上げられ、70歳を過ぎても繰下げ待期を続ける人が出てきました。

 

ところが待期中に病気などで働けなくなり「やっぱり、さかのぼって受け取りたい」となったとき、本来請求では5年を超える部分が時効で消えてしまいます。そこで、70歳以降も安心して繰下げ待期を選べるよう、70歳以降(80歳未満)に本来請求を選んだ場合でも、請求の5年前に繰下げを申し出たものとみなし、増額された年金の5年分を一括で受け取れるようにしたのです。

 

つまり特例的な繰下げみなしは、時効があるがゆえに生まれた救済制度といえます。

 

誠さんのケースに当てはめると、72歳で請求すれば5年前の67歳で繰下げたとみなされ、増額率は16.8%。年約234万円に増えた年金の5年分、約1,168万円を一括で受け取れる計算です(【図1】(2)参照)。

 

「それなら、誠さんにも使えるのでは?」――筆者も現場でまさにそう考え、年金事務所に確認しました。しかし、答えは「使えない」。特例的な繰下げみなしも、あくまで本人の請求(意思表示)が前提です。本人が亡くなったあとに、遺族が未支給年金として請求する場合には適用されないのです。

 

その結果、誠さんの年金は時効の原則どおりに扱われます。恵子さんがすぐに請求しても、さかのぼって受け取れるのはおおむね67歳以降の5年分、本来の額で約1,000万円だけです(【図1】(3)参照)。これを恵子さんが未支給年金として受け取り、65歳から67歳までの約2年分、およそ400万円は時効で消えてしまうのです(【図1】(4)参照)。

【図1】誠さんの年金の受け取りイメージ