(※写真はイメージです/PIXTA)
退職祝いの翌朝、目覚めると妻はいなかった
「今までお疲れさま。しばらくは、ゆっくり休んでください」
定年退職の翌朝、テーブルの上に置かれた手紙には、そう書かれていました。東京都内のメーカーで本部長を務めていた高橋雅彦さん(60歳・仮名)は、その文面を何度も読み返しました。前夜は、妻と2人で退職祝いの食事をしたばかりでした。
高橋さんは38年間同じ会社に勤め、退職時の年収は約1,450万円。退職金は3,800万円でした。65歳から受け取る年金見込み額は夫婦合計で月30万円ほど。湾岸エリアのタワーマンションは15年前に購入し、住宅ローンは完済済みです。
「これでようやくゆっくりできる」
そう考えていました。ただ、妻の真理子さん(58歳・仮名)からは、以前から何度も相談がありました。
「お父さんの認知症が進んでいて、お母さん一人では限界なの。あなたが定年を迎えたら、しばらく実家に戻って介護してもいい?」
そのたびに高橋さんは、「もちろん」と余裕のある表情で答えていました。そして、そのやり取りの通り、高橋さんが定年を迎えた翌朝、真理子さんは実家に戻ったのです。
「しばらく向こうで暮らします。週末は戻るようにします」
置手紙には、そう添えられていました。30年以上ぶりの一人暮らし。「気楽なもんだな」と思っていたのもつかの間、高橋さんは自分が家のことをほとんど知らないと気づきました。
洗濯機の電源は入れられても、洗剤をどこに入れるのか分かりません。浴室乾燥の使い方も知らない。冷蔵庫には妻が作り置きした料理が並んでいましたが、電子レンジで何分温めればいいのか分かりません。結局、昼食は冷たいままの総菜と冷たいままの白米で済ませました。夜になっても、部屋は静かなままでした。
高橋さんは、現役時代には毎日帰宅が22時を過ぎていました。家事はすべて妻に任せきりです。マンションの管理組合の理事会に出たこともなく、同じフロアの住人の名前もほとんど知りませんでした。
翌週、妻から電話がありました。
「お父さんが夜中に何度も起きるの。お母さんも疲れ切っていて……もう少しこっちにいることになりそう」
「無理するなよ」と答えたものの、本当は今すぐにも帰ってきてほしい――それが本音でした。
厚生労働省『2025年(令和7年)国民生活基礎調査』によると、同居の主な介護者の介護時間が「ほとんど終日」である割合は、要介護度が上がるにつれて急激に増加します。「要介護2」では15.1%ですが、真理子さんの父親と同じ「要介護3」になると29.5%へと約2倍に跳ね上がり、「要介護4」で48.5%、「要介護5」では54.2%と半数を超えます。
要介護度が進むにつれ、子世代がつきっきりで介護をせざるを得ないケースは決して珍しくありません。高橋さんの戸惑いは、誰もが直面しうる現代の切実な「老後リスク」といえるでしょう。