定年退職を迎えた翌朝、穏やかな時間を期待していた夫を待ち受けていたのは、妻からの思いがけない一言でした。十分な資金計画を立てて迎えたリタイア生活であっても、想定外に直面することも。定年後のセカンドライフにおける夫婦の役割分担や今後の暮らしの現実にどう向き合うべきか、考えていきます。
「長い間、おつかれさまでした」退職金1,500万円・60歳夫、定年退職の翌朝、55歳妻に叩き起こされたワケ (※写真はイメージです/PIXTA)

家事という新しい仕事と、共働き妻への畏敬の念

朝食の準備を頼まれた初日、冷蔵庫の中に何が入っているのか分かりませんでした。洗濯機のコース設定も知らない。ゴミ出しの日も把握していません。

 

「いきなり上手にやる必要はない。とりあえず、すべてあなたがやって」

 

美紀さんはそう言って出勤しました。恒一さんは会社では部下30人をまとめていました。会議資料は30分で作れます。取引先との交渉も得意でした。ところが、スーパーで食材を選ぶだけで1時間かかりました。

 

昼過ぎ、妻からLINEが届きます。「洗濯物、干しっぱなしにしないで。夕方雨予報」。午後には区役所へ行き、国民健康保険への加入と国民年金への切り替え手続きを行いました。会社員時代には会社が進めてくれていた手続きも、今度は自分で調べて動かなければなりません。恒一さんは番号札を握りながら、「会社を辞めるって、こういうことか」と感じていました。

 

夕食の準備を終えたころには外は真っ暗になっていて、掃除をすることはできませんでした。初めて作った夕食。正直、美味しくなかったといいます。それでも美紀さんは文句を言わずに食べてくれたとか。

 

「定年退職した翌日くらい、ゆったりできると思ったんですが……甘かったですね」

 

毎日、料理、洗濯、掃除をこなすなかで、名前のない家事がたくさんあることに気づきました。国立社会保障・人口問題研究所『第7回全国家庭動向調査』によると、名もなき家事とも呼ばれる「見えない家事」のうち、「食材や日用品の在庫の把握」は86.0%、「食事の献立を考える」は88.9%の家庭で妻が担っているのが実態です。また、日常的な家事においても「炊事」をまったくしない夫は50.4%、「洗濯」をまったくしない夫は42.3%に上ります。

 

恒一さんのように、企業で長年活躍してきた夫でも、長年妻が一人で抱え、見過ごされてきた多岐にわたる家事の全貌に直面し、その負担の重さと複雑さに初めて気づくケースは決して珍しくありません。

 

このような生活を始めて4ヵ月。いまだに料理は上達しないといいますが、美紀さんは文句ひとつ言いません。そのことを不思議に思った恒一さんが、なぜ何も言わないのか理由を聞いてみたところ、こう返ってきたそうです。

 

「家事を何もしなかったけれど、口出しも一度もしなかった。それだけで随分と救われた。だから私も文句は言わない」

 

働きながら家事のすべてをこなしてくれた美紀さんへの感謝の気持ちが、さらに深まったといいます。