(※写真はイメージです/PIXTA)
10年以上会っていない兄の異変を知らせる電話
「XXハイツの管理会社ですが、お兄さまのお部屋の件でご連絡しています」
電話を受けたのは、神奈川県内で夫と暮らす佐伯由紀子さん(68歳・仮名)。ある平日の昼過ぎ、見慣れない番号からの着信でした。管理会社の担当者は言いづらそうに続けました。
「数日前から、隣室の入居者から異臭の相談がありまして……。お兄さまと連絡が取れない状況です」
由紀子さんは一瞬、言葉を失いました。兄の健一さん(72歳・仮名)とは10年以上会っていませんでした。年賀状のやり取りも途絶えています。最後に聞いていた住所も古く、どこで暮らしているのかさえ知りませんでした。
「なんで私に電話が……」
そう思った直後、管理会社から告げられた言葉に胸がざわつきます。緊急連絡先として、由紀子さんの名前が残されていたのです。
「兄は私のことを嫌っていたはずでした」
そう口にしたあと、しばらく沈黙が続きました。翌日、由紀子さんは管理会社と待ち合わせ、東京都内の築48年のアパートへ向かいました。
家賃は月4万8,000円。2階建ての古い木造物件です。健一さんはそこで一人暮らしをしていました。近隣住民の話では、ここ数年ほとんど人付き合いはなく、顔を合わせても会釈程度だったといいます。郵便受けには大量のチラシや封筒が詰め込まれており、電気メーターの動きも鈍かったとのことでした。
高齢者の単身世帯は増え続けています。総務省『国勢調査』によると、65歳以上人口に占める一人暮らしの割合は、昭和55年には男性4.3%、女性11.2%でしたが、令和2年には男性15.0%、女性22.1%へと大きく増加しました。さらに、国立社会保障・人口問題研究所の将来推計によれば、令和32年には男性の26.1%、女性の29.3%が一人暮らしになると見込まれています。このように単身高齢者が急増するなか、健一さんのように親族や地域との繋がりが途絶えがちな方々の孤立をどう防ぐかが、現代の深刻な社会的課題となっています。
兄妹、10年ぶりの再会
管理会社立ち会いのもとで部屋を開けると、ごみが山積みになっており、強い臭気が流れ出しました。由紀子さんは思わず顔をしかめます。最悪の事態が頭をよぎりましたが、室内の奥から微かな物音が聞こえました。
健一さんは生きていました。
布団の上で横たわり、自力で起き上がれない状態だったのです。救急搬送後に判明したのは重度の脱水と栄養失調でした。医師によれば、あと数日発見が遅れていたら命に関わる状態だったといいます。
由紀子さんは病室で10年ぶりに兄と向き合いました。痩せ細った兄は、最初こそ視線を合わせませんでした。そしてぽつりと言いました。
「来なくてよかったのに」
兄妹の確執は古いものでした。父親の相続をめぐる口論がきっかけです。当時の遺産総額は約2,400万円。健一さんは実家の土地建物を希望し、由紀子さんは現金分割を主張しました。話し合いは決裂し、その後、兄妹は事実上、絶縁状態になります。
「お前は金しか見てない」
「自分勝手なのはそっちでしょう」
最後の会話は怒鳴り合いだったそうです。
現在、健一さんは独身のまま。元会社員で65歳まで働いていましたが、退職後の生活は苦しかったといいます。年金収入は月14万円ほど。家賃4万8,000円、光熱費や通信費で約2万円、食費は月2万円前後——手元に残る余裕はほとんどありませんでした。
貯蓄も60代後半から急速に減少していきます。入院歴や歯科治療費が重なり、発見時の預金残高は約38万円でした。
さらに驚いたのは、誰とも連絡を取っていなかったことです。スマートフォンには家族の番号が1件も登録されていませんでした。友人との通話履歴もなく、SNSも利用していない。自治体の見守りサービスも未登録でした。完全に社会との接点が途切れていたのです。