(※写真はイメージです/PIXTA)
手放しで喜べない理由
翌週、フジオさんとアイコさんは二人で物件の見学に行きました。昭和60年代に建てられた団地の一室。3階でした。エレベーターはありません。
フジオさんは階段を見ました。アイコさんは2年前から膝に痛みが出ており、長い階段の昇り降りは時間がかかります。部屋の中は6畳と4畳半のふた間で、収納は少なく、台所の窓から見える景色は隣の棟の壁でした。担当者が「日当たりはよくはないですが、静かな環境です」と説明してくれるあいだ、アイコさんは黙ってうなずいていました。
帰りの電車のなかで、アイコさんがぽつりと言ったそうです。
「20年前に当たっていたらよかったね」
フジオさんは返事ができませんでした。
20年間の家賃を計算してみると…
その夜、フジオさんは計算してみました。
51歳から20年間、月平均7万円の家賃を払い続けたとして、総額は約1,680万円。都営住宅の平均家賃は月2万3,000円ほどです。仮に20年前に当選していれば、毎月4〜5万円近くの差額が生まれていた計算になります。20年で約1,000万円。その差額があれば、いまの老後はずいぶん違っていたかもしれません。
「せめてアイコが元気なうちに当たっていれば」。そんな思いが、頭の中をぐるぐるしていました。
翌朝、二人は少し話し合いました。都営住宅は入居者が勝手に改修することはできず、階段の手すりの設置には都への申請と承認が必要だと調べてわかったこと。いまの部屋を解約する際の原状回復費用のこと。引っ越し費用のこと。公営住宅は礼金こそ不要ですが、敷金は家賃の1~2ヵ月分程度が相場です。実際の引っ越し代と生活用品の買い替えで40万円弱はかかる見込みです。
「老後の住まい」が間に合わない問題
抽選倍率の高さは前述のとおりですが、公営住宅をめぐる日本の住宅問題はそれだけではありません。民間サイト「都営住宅ワンダーランド」が2026年2月に公開した、2021〜2025年の5年間の募集データの集計・分析によると、この期間の募集戸数は5万9,500戸に対し応募者は約54万6,000人。一般区分の平均倍率は7.5倍ですが、高齢単身者向けの「シルバーピア」は供給数が極端に少なく、高倍率になりやすい構造が続いています。必要としている人がなかなか入れない状況です。
民間賃貸における高齢者の「住みにくさ」も深刻です。株式会社R65が2025年7月に実施した「高齢者の住宅難民問題に関する実態調査」によれば、65歳を超えて賃貸住宅を探した人のうち、年齢を理由に入居を断られた経験がある人は30.4%。直近1年間に限ると36.7%に上昇しています。低収入だからではなく、高齢というだけで物件の選択肢が狭まっていく現実があります。
こうした状況を受けて、2025年10月には改正「住宅セーフティネット法」が施行されました。高齢者などの「住宅確保要配慮者」が安心して賃貸住宅に入居できる環境整備が目的で、見守り体制のある「居住サポート住宅」の創設などが盛り込まれています。しかし制度が整う前にすでに70代を迎えてしまった世代にとっては、「もう少し早ければ」という気持ちはどうしても残ります。
都営住宅での新生活
フジオさん夫婦はその後、当選物件への入居を決めました。アイコさんの膝については、都の窓口に手すりの設置申請ができることがわかり、手続きを進めることに。引っ越し費用は子どもたちが少し援助してくれることになりました。
入居後、月の家賃は2万3,000円になります。年金13万円から差し引いても10万円以上が手元に残る計算で、6万円を超えていた家賃との差は歴然です。「あと10年早ければ」という後悔は消えませんが、フジオさんは「これからの分を大事にするしかない」と言います。
公営住宅の抽選は、応募すれば必ずいつか当たるものではありません。20年間外れ続けることもあれば、もっと長くかかることもあります。だからこそ、老後の住まいについては収入・家賃・貯蓄のバランスを早い段階から見直しておくことが必要です。
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