掠れた声のSOS
「助けて……頼む」
その電話があったのは、平日の昼休み。都内の物流会社で働く佐伯健一さん(57歳・仮名)は、スマートフォン越しに聞こえた父の声に違和感を覚えました。
父の正夫さん(85歳・仮名)は地方都市の実家で一人暮らし。母(正夫さんの妻)は5年前に他界し、以来、正夫さんは年金月16万円で生活していました。預貯金は980万円ほど。持ち家で住宅ローンもありません。老後資金に大きな不安はないように思えました。
「どうしたの?」
そう尋ねても、正夫さんは要領を得ません。
「動けないんだ……家の中が……」
途中で言葉が途切れました。健一さんはその日の午後休を取得し、新幹線で実家へ向かいました。到着したのは夜。玄関を開けた瞬間、異臭が鼻を突きました。腐敗臭とも違う、湿気を含んだ重い臭いです。靴を脱いで廊下へ進むと、床には新聞紙が何枚も敷かれていました。
居間のドアを開けた健一さんは言葉を失いました。使用済みの紙おむつが積み上がっています。台所の流しには洗われていない食器。冷蔵庫には賞味期限切れの総菜。正夫さんは汚れた寝間着のまま座布団に座り込んでいました。
「トイレまで行けなくなった」
それが正夫さんの説明でした。数ヵ月前から足腰が弱り始めていたそうです。しかし正夫さんは誰にも相談しませんでした。介護認定を受けることも拒んでいました。
「まだ世話になる歳じゃない」――それが口癖だったといいます。
見えなかった限界
翌日、健一さんは地域包括支援センターを訪れました。そこで初めて知った事実がありました。近隣住民から市役所へ複数回の相談が寄せられていたのです。
「最近見かけない」
「家から臭いがする」
厚生労働省『令和6年 国民生活基礎調査』によると、65歳以上のみで構成されている高齢者世帯1,720万世帯のうち、単身世帯は903万世帯と半数を超えています。今後も高齢者の一人暮らしは増加すると見込まれています。
しかし数字以上に深刻なのは、家族が離れて暮らしているケースです。健一さんも月に1回は帰省していました。毎月5万円ほどを交通費や生活支援費として使っていました。それでも異変は見抜けませんでした。正夫さんは電話では元気なふりをしていたからです。
「来なくていい。俺は平気だ」
そう言われ続けていました。その言葉を信じたかった気持ちもあります。
一方で健一さん自身にも余裕はありませんでした。年収は約520万円。独身で賃貸暮らしです。家賃は月9万2,000円。老後資金として積み立てているNISA口座もありますが、残高はまだ300万円ほどでした。
親を支えながら自分の老後も考えなければなりません。
「親の介護で会社を辞めるなんて無理だ」
そう思っていました。しかし現実はもっと厳しかったのです。要介護認定の手続きが始まり、訪問介護やデイサービスの調整も進みました。ところが正夫さんは激しく抵抗しました。
「他人を家に入れるくらいなら死んだほうがいい」
ケアマネジャーが訪問した日も怒鳴り声が響きました。健一さんは説得を続けました。何日も帰省したため、有給休暇は急速に減っていきました。そして職場でも上司から声を掛けられます。
「また休むのか?」
悪意はありません。しかし、それが上司含め、職場での普通の反応でした。