長年、組織の要職で采配を振るってきたエリートにとって、定年退職はある意味「解放」であると同時に、アイデンティティを喪失する瞬間かもしれません。ある元部長の事例を通し、高額な退職金だけでは埋められない「心の空白」について見ていきます。
「ありがとう、君たちと働けて幸せでした」会社員人生、有終の美だったが…〈退職金3800万円〉60歳元エリート。定年90日後に語った〈衝撃の告白〉 (※写真はイメージです/PIXTA)

完璧な幕引き、そして始まった「空白の日々」

「田中さん、本当にお疲れ様でした!」

 

都内の大手企業で定年を迎えた田中弘幸さん(60歳・仮名)。役員候補と目された部長職としての現役生活を終えました。銀行口座に振り込まれる予定の退職金は3800万円。65歳から手にできる年金は月20万円強。お金がかかる趣味もなく、贅沢にも興味はありません。経済的な不安はありませんでした。

 

「ずっと仕事を優先し、その結果、結婚にも縁はありませんでした。十分、働いてきたんだから、そろそろ自分だけのために生きてもいいのではないか。そう思って、定年を機に会社を辞める決断をしたんです」

 

退職翌日の朝、田中さんはいつものように午前6時に目が覚めました。手に取ったスマートフォンには、部下からの相談メールも、取引先からの緊急連絡も入っていません。ネクタイを締める必要のない朝は、解放感に満ち溢れていたといいます。しかし、退職から3カ月後。かつての部下たちが耳にしたのは、田中さんが自宅に引きこもっているという話でした。

 

あんなに精力的にプロジェクトを回し、会食やゴルフに飛び回っていた部長が――。イメージとあまりに異なる現状に、誰もが信じられなかったといいます。

 

そんな噂が流れたのは、かつての部下が「久しぶりに会いたい」と、田中さんに声をかけたことがきっかけでした。しかし、電話口に出たのは、現役時代とは180度違う田中さんだったのです。

 

当時の田中さんは、家のカーテンは常に閉め切ったまま。薄暗い部屋で目的もなくテレビを観たり、新聞を何回も読み返したりして、ただ時間を持て余していました。出かける気にもなれず、ほとんど動かないためお腹も空かない。空腹に耐えきれなくなったら出前をとる。幸い、お金は十分あり、家から一歩も出なくても生活は成り立っていました。田中さんはそのときの心境をこう語ります。

 

「会社で働いていたときは部長という肩書があったので、部長としてふるまっていればよかった。ただ、会社を辞めたら、どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまって。私には近しい家族もいませんし、日々の生活の中で何か求められることもない。しなければいけないことがなく、ただ時間だけが過ぎていくんです」