(※写真はイメージです/PIXTA)
いつまでも消えない「親」という自負
安藤健一さん(65歳・仮名)。地元で一人暮らしをしていた母・静江さん(92歳・仮名)の異変に気づいたのは、5年ほど前のことでした。 しっかり者で近所でも評判だった母が、同じ話を繰り返すようになり、やがて火の不始末が重なります。健一さんは自身の定年を機に、妻と相談して母を都内の有料老人ホームへ呼び寄せる決断をしました。
かつて一家の大黒柱として厳格だった父を早くに亡くし、静江さんは女手一つで健一さんを育て上げました。 その母も、今では歩行がおぼつかなくなり、食事の介助が必要な場面が増えています。 面会の日、健一さんはいつも「何か困っていることはないか」「体調はどうか」と、まるで仕事の進捗を確認する管理職のような口調で接していました。
「無意識のうちに、自分は支える側であり、母は支えられる側である、という役割分担を自分に課していたんだと思います。認知症が進んで、私のことを思い出せないことも多くなっていました。役割を演じないと、冷静でいられなくて……」
そんな思いが揺らぐ出来事が起こります。ある面会の日、静江さんは健一さんの顔をじっと見つめ、まるで小学生に小遣いを与えるかのような手つきで、しわくちゃの1,000円札を握らせました。 定年退職を迎え、すでに孫もいる健一さん。一瞬戸惑い、笑って断ろうとしたといいます。
しかし、静江さんは「いいから。お前は、まだ子どもなんだから」と譲りません。 静江さんは施設のスタッフに付き添われて売店へ行く際に、預けていたわずかな「小遣い」のなかからこっそり抜き出し、健一さんが来る日に合わせて大切に保管していたようです。
「『疲れているだろうから、たまには甘いものでも食べなさい』と。少しの時間でしたが、あのときは母に戻っていましたね」
健一さんは「ありがとう。大事に使うよ」と答えるのが精一杯だったといいます。
