知られざる“水害の街”としての「大阪」

かつて大阪平野は一面が海だった。陸地が形成された後は、そのほとんどが湿地帯となった。

戦国時代末期に豊臣秀吉が城下町を整備し、江戸時代には新田開発が行われたが、湿地を形作っていた河川は縦横無尽に流れ、水害を多発させていた。そんな災害の記憶が、大阪の地名には留められている。その一つが放出(はなてん)だ。

放出は、大阪市の鶴見区と城東区にまたがる地域にある。地名の由来は諸説ある。

熱田神宮の秘宝の剣を盗んだ新羅の僧侶が逃亡中、この地で剣を「放り出した」という説や、家畜の放牧場だったという説が有名だが、有力視されているのは、「水の放出場所」と考える説である。

かつて放出とその周辺は、寝屋川、長瀬川、旧大和川などの合流地点でもあった。水が集中しやすいため、朝廷は水を樋で旧淀川(現大川)へと定期的に放っていたという。当初は「はなちてん」と呼ばれていたが、徐々に訛って「はなてん」になったらしい。

放出は、洪水多発地でもあった。地域の大半が低湿地帯で河川も多く、豪雨で氾濫が起きやすかったのだ。

享和2(1802)年には淀川で大規模な決壊が起こり、旧放出村を含む237カ村が浸水している。1885年6月にも暴風雨の影響で、淀川は再び氾濫。翌月には寝屋川の堤防も決壊し、放出を含む淀川以東が水浸しとなった。浸水被害は最大4メートル、被災世帯は大阪府全体の世帯数の約20%にあたる7万2509戸であった。

昭和に入っても、放出は水害に襲われている。1972年と1976年には寝屋川が氾濫して、床上浸水が発生したという。1969年には水害防止のために第二寝屋川が掘削され、堤防設備が完備されたが、現在でもJR放出駅の周辺は低地である。水害リスクはいまも低くない。