フルタイムではないにしろ、きちんと働いている。それなのに、いまひとつ働いている実感が持てない。もしそんな風に感じる人がいれば、それは根深い「正社員の呪縛」によるかもしれない。本記事では、長年非正規雇用で働きながら社会問題について発信してきた文筆家・栗田隆子氏の著書『「働けない」をとことん考えてみた。』(平凡社)を一部抜粋し、「働く感覚」や日本の労働事情について考えていく。
働いているけど、働いている実感が持てない理由
最近(2024年6月)の私の仕事ぶりは、体が動く範囲でアルバイトや在宅の仕事をしている。それならば「『働けない』をとことん考える、どころか働いちゃっているじゃないか」とツッコミを受けそうだ。だけど、働いているはずなのにいまひとつ「働いている」実感が持てない。
1970年代に生まれた日本の女性解放運動(「ウーマンリブ」と呼ばれた)の旗手の一人、田中美津の著作『いのちの女たちへ』(注1)では、リブに出会う前に田中美津が「定職」についていたと綴る際に、「驚くなかれ、あたしは夏の間中、職場の近くにある風呂場に忍び通って毎日3時頃いい気持ちで戻ってきたりしてたのだ。むろん、どんなにいいかげんな会社でも、風呂付きで勤めさせてくれるとこなんてあるハズもない。まったくの非公然で、今想い出してもバレなかった方が不思議な位である」と「非公然」に銭湯に入っていたという記述がある。
会社員である田中美津がどこにいても何をしても同じだというつらさや、自分を「異邦人」(ママ)としてしか感じられないゆえの「無気力、無関心」となる状況が伝わり、リブに出会う前の田中美津の様子がとても印象的だった。
だが、それにしても勤務しながら風呂屋に入れるなんてと、驚いたものだった(そもそも風呂屋も激減している!)。勤務時間もタイムカードで管理される今の時代では考えられないエピソードである。
女性解放思想にかかわった人たちが学生やバリバリと働く女性たち、あるいは(その後80年代の市民運動で登場した)反原発などの市民活動に熱心な専業主婦とは限らないという点でも印象的だったのかもしれない。
勤務時間内ではないが今の私は働いているといっても、それこそパートタイムの仕事なので田中美津のように「昼間に風呂に入れる」程度の自由を確保しているからか、自分の限界まで働いていたとしてもどこか「働いていない」気がしてしまう。
日本社会ではフルタイムの「正社員」の働き方を労働者モデルとして法律も制度もつくられている。そこからズレているがゆえに、いまひとつ「労働者」としてのアイデンティティが持てないのかもしれない。
いまだにこの正社員の呪縛が自分の中にあるのか? と驚いてしまう。日本には「公民権」とか「市民権」同様、場合によってはそれ以上に、「社会人」であるかどうかという区別が大手を振っている。正社員=社会人で、それ以外は周縁の存在、という呪いが恥ずかしながらいまだに自分の中で有効なようなのだ。
(注1)田中美津『いのちの女たちへ──とり乱しウーマン・リブ論』初版は1972年、田畑書店より発行。