人間関係にとらわれ過ぎないのが、未来的生き方

人間関係の苦手な人でも、特定の話題に通じ、詳しく語る人がいます。そういう方は属する集団の質を変えてみると、思いがけない発見があるかもしれません。周囲も、その人にふさわしい環境設定を促すことを考えてみましょう。

人は共通の回路があれば、関わりやすくなるものです。たとえば趣味のサークルなどが一番わかりやすいと思いますが、共通言語があることで違いを超えて共通点が強調されるため、関係性が築かれやすくなります。距離が取れない自覚がある人は、場にいてもふさわしい話題が選べず、笑いも取れず、馴染めないので、人一倍疲れてしまいがちです。

ですから周囲もそういう方には、「あまり無理しなくていいよ」と言うのはもちろん、具体的なその場への参加や貢献の仕方を教えてあげる必要があります。コミュニケーション不全を自覚している人に対しては、周囲は、技能において社会に貢献することを促すのがよいでしょう。得意なことで、場に貢献をしてもらうのです。

自己確認の仕方も、時代とともに変わりました。ネットで承認されるということも、私が若い頃には存在しなかった選択肢です。つい「若いうちは人間関係が不得手でも仕方ないけれど、そのまま続くはずがない」などと、周囲は批判的な目線を持ちがちですが、幸福を単層的にとらえ、社会的成功などを基準に考える時代はもう古い、と考えを切り替えましょう。

幸福を多層的に見て、余暇の時間、単独の時間を主に生きることが、むしろこの先の未来を確保していく生き方かもしれません。

遠慮過剰、気遣い過剰が自分をつらくする

現代人は、口を開けば他人にものを頼んだら悪い、他人を頼りにしてはいけない、と言います。こういった遠慮過剰、気遣い過剰が、人との距離を遠ざけすぎてしまうのですが、この傾向は若い人にも顕著です。

大学の長期休暇の際に、「二週間を使って、四人で一緒に何かしてみてください」という課題を学生に出したところ、百人弱のクラスの多くのグループが何もしてきませんでした。この課題は「人と関わる練習」なのに、なぜ学生は課題をやらなかったのかを探ってみると、どうも自分から誘ったら相手の迷惑になるんじゃないかと考え、お互いに遠慮をしてしまったようなのです。

人を誘うことが心理的にとても負担が大きい人は、確かにいるとは思いますが、これは教員になる人の授業なので、遠慮し合っていては何も起きません。再度促してみると、ようやく少しずつ腰を上げたのか、「カラオケに行った」「ラーメンを食べに行った」など、細やかな交流をするグループが出てきました。

知らない人と一緒に行動することは、大人が思う以上に、大学生にとってハードルが高いようですが、ひと押しすれば楽しむことはできるのです。溝を飛び越えるのには手間がかかるものですが、遠慮の壁を下げて溶かしてみると、そこに新しい扉が開きます。

気楽に誘うという行為は、慣れの問題です。マナーや距離感を大事に思う気持ちはわかりますが、お互い少し積極的になるとバランスが良くなります。

齋藤孝
明治大学文学部教授