『ひかりごけ』が問いかける、モチーフの深さ

作品は“私”が羅臼を訪ね、地元の中学校長の案内でヒカリゴケを見に行く。この描写がさいはての風土と人気を描いて、つきづきしい。わけもなく引き込まれて読み進んでしまう。そのうちに“私”は校長から、かつて、厳寒の冬、この付近に漂着した船の船員たちが飢えに苦しみ、仲間を食べてしまった事実を聞かされる。その詳細は『羅臼村郷土史』に記されていて、この紹介が事件の特異性とあいまって、なかなかの読み物だ。

さらに、この作品より少し前に発表されて話題となった大岡昇平の『野火』の中の一節、すなわち戦場で同じく飢えに苦しんだ男の言葉「僕は殺したが、食べなかった」を引用し、『ひかりごけ』の中の“殺したわけではないが、食べてしまった”ケースとの比較に筆が延びていく。さらに戦争に代表される殺戮の非人間性をサラリと糾弾する。

ずいぶんと堅くむつかしくなりそうなテーマだが、ここで一転、作品は二幕のドラマと化し、喜劇の要素を混えながら寓意性に富んだ結末へと向かって行く。貫いているモチーフは人間の原罪だ。私たちは生まれながらにして罪を抱いているのではないのか。キリスト教に顕著な考え方だが、仏教などにも似たような考えが伏在しているだろう。

キリスト教では人間と他の動物とを区別し、獣肉はためらうことなく食用に供してよいが、カニバリズムなんてトンデモナイ。しかし仏教徒には、生きとし生けるものはみんな同じ命と考えるところがある。このあたり、彼我において“人を食う”ことの意味に少しちがいがあるのかもしれない……。

いや、いや、武田泰淳は、こうした理屈をかまびすしく開陳しているわけではない。フィクションの筆致に乗せて読み手がおのずと思案するように創っている。そこがうまい。そこがおみごと、と久しぶりに読んで思った。

話は変わるが、井上ひさしは深刻なテーマをドラマ化することにより笑いを混え、軽やかに訴える、そこにおいて卓越していた。ドラマにはこの力がある。小説とは少しちがう。井上ひさしと身近に接し、その作品を数あまた多知ったあとであればこそ、武田泰淳が『ひかりごけ』に突如ドラマを取り入れた理由がよくわかった。

そして、この『ひかりごけ』の構造が……ノンフィクションのような探訪記から始まりそれが郷土史を踏まえた小説となり、さらに二つのドラマと変わる全体構造が、どれほど創るに困難か、だが、どれほどうまく機能しているか、以前には気づかなかったことが、しみじみ理解できたと思う。作品が問いかけるモチーフの深さとともに、

──これぞよい小説──

楽しみながら人間の実存を考えさせられてしまった。知床の地は、もう一つ、この作品により知の神秘を備えることになったのではあるまいか。



文藝春秋・編