作家・阿刀田高氏が、その巧みな技巧に「舌を巻いた」一冊とは?

「ひかりごけ」/武田泰淳(新潮文庫『ひかりごけ』所収)

知床半島は今でも秘境として人気を集めているが、五十年ほど前、私が訪ねたときは観光客の姿などほとんど見ることのない、文字通りの秘境であった。半島の中ほど、羅臼のマッカウス洞窟は、なにげない岩穴だが、その奥まった一画にヒカリゴケが密棲して神秘の光を映していた。見えたり消えたり、あえかに美しい。

旅から帰って、

「知床行ったぞ。ヒカリゴケ見たぞ」

呟くだけで仲間たちが耳を傾ける。ちょっとうれしい。そんな秘境を描いた作品があると聞けば読んでみたくなる。

武田泰淳の『ひかりごけ』は一読して、

──うん、うん、この通りだったなあ──

私が見聞した風土が鮮かに綴ってある。しかもここでは“人肉を食べた”という実話が主題となっていて、カニバリズムの文学としても、

「あれ、読んだか? すごいぞ」

これも仲間に誇りたくなる。加えて、死体を前にした男たちの会話がおもしろい。

八蔵 五助の葬式はやらなくても、いいだか。

船長 葬式はいつでもできる。それよか、おめえたちが、どう腹をきめるかが問題だ。

八蔵 食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ。

船長 流しちまったら、しめえだぞ。流すまえに、みんなしてよく考えるだ。

八蔵 考えたら、どうしたって、話がそこへ行くだよ。食べることしか考えてねえのに、喰い物になるのは五助しかねえだからよ。うんだから、考えのもとになるもんを、なくすより仕方ねえだ。

船長 八蔵、おめえほんとに、あれを喰いたくはねえのか。

八蔵 ……おら、五助さ喰いたくはねえ。うんだが、あの肉はときどき喰いたくなるだ。

黒い笑いを誘うシーンも散っていて、ブラックユーモアの傑作であることも疑いない。『ひかりごけ』は私の読書の楽しみを充分に満たしてくれる作品として記憶に残った。

過日、久しぶりに読み返してみると……もちろんおもしろい。だが、じっくりと読み込み、

──中身が深いなあ──

あらためて厳かな感興に打たれた。モチーフの重さを感じた。技法の巧みさに舌を巻いた。