明治大学教授の齋藤孝氏によると、今の日本人が精神面の基準とするべきは『論語』だといいます。かつての日本で親しまれていた「論語的世界観」が、いつの間にか廃れてしまったのはなぜでしょうか? 文藝春秋・編『定年後に読む不滅の名著200選』より、詳しく見ていきましょう。
50歳で無職。14年間、仕事を求めて放浪…そんな孔子が書いた『論語』の世界観が、今の日本人に必要なワケ【明治大学教授・齋藤孝氏が助言】
「人生を素晴らしくするためのヒント」が詰まった一冊
『論語』/金谷治 訳注(岩波文庫)
今の日本は、人々が生きる道に迷い、国としても進むべき方向を見定められずにいる状況です。その原因のひとつは、人々に共通する精神的な拠りどころがないことにあるのではないでしょうか。昨年、私は『現代語訳 論語』(ちくま新書)を1年半かかって完成させましたが、今こそ論語が日本人の精神面の基準になるべきだという思いを強くするばかりです。
言うまでもなく、論語は長いあいだ日本で親しまれてきた古典中の古典です。江戸時代になると寺子屋教育によって庶民にも広まり、論語の文言とセットになって倫理観が自然と体の中に入っていくようになりました。それが人々の学問の素養となり、日常の行動の規範にもなっていたのです。
倫理観というと自分を縛るものというイメージがありますが、じつは何を大切な価値として生きていくのかの基準になるものです。それこそが個人の生きる力を育て、国としての勢いを作るのです。
論語的な倫理観が国民共通の思想となって最大限に発揮されたのは、幕末から明治にかけてだったのではないでしょうか。まだ国としては貧しく、諸外国に比べて遅れていましたが、自分たちの国をよりよい国にしようという希望に溢れた人々の思い、国の勢いは今とは比ぶべくもありません。
たとえば「義を見て為ざるは、勇なきなり」(為政第二)という言葉があります。自分自身の身は朽ちたとしても明るい日本を築くのだ、という信念に基づいた幕末の志士たちの行動は、まさにその言葉そのものでした。