森鴎外ならではの「リズミカルな文語体」が冴わたる一冊

『即興詩人』/アンデルセン(森鷗外訳・岩波文庫)

子どもの頃、本の好きな友達の原田から「おまえは津和野なんだからヰタ・セクスアリスを読め」といわれ、その頃読んだわたしは、「十五になった」という章を思い出す。鷗外は、わたしが啄木に熱中していた十五の頃、すでに漢書を何冊も読んでいた。しかも、同じ本をまだわたしは読んでいない。第一手に入れるのがむつかしい。

小学生の頃、鷗外の誕生日には、講堂に飾られた鷗外先生の肖像画の前に並ばされた。先生が言われるには「鷗外先生は小学生の頃、四書五経を読破された。一生に書かれた作品は、毎日四枚の原稿用紙を埋めねばならないほどだといわれている。みんなもしっかり本を読んで鷗外先生のようになりなさい」と自分のことは棚に上げておっしゃった。

わたしはお説教なんか聞きもせず、津和野のような田舎に、そんな偉い人がいるもんかとおもって、冷える足をこすってばかりいた。ところが、先生の言われたことは、本当だったのだ。本は子どもの時から読むほうがいい。頭の体操として本を読むことで、読書習慣がつき、大げさに言えば依存症になった人を、たまに電車などで見ることがある。あれは語るに足るすばらしい人である。

このごろ、そういう人が少なくなったというが、それは子どもの頃から読んでいないからだと思う。字が難しかろうと、話が高級だろうと、子どもの頃から読めば眼で字を追うだけでも楽しい。その証拠は鷗外だけでなく、今の台湾の子どもたちがそうだ。彼らは今も旧漢字の難しい字をすらすら読むし、しかも字のなりたちを習うらしく、一つの文字を解説して見せる。子どもの頭の中という収容能力は、大人が考えるより、はるかに大きくひろいのだ。わたしは大きくなって、『舞姫』を手はじめに、文語体のいわゆる三部作を読んだ。

筋書きだけのようでも、これがやめられないと言われた『護持院ケ原の敵討』は、一気に読んだ。石川淳は『諸国物語』が最高だというので読み、『澀江抽齋』が最高だという友達がいたので、これも負けまいと思って読んだ。そういえば『山椒大夫』は教科書にあった。その意味で『高瀬舟』を知らないものはない。

そして、津和野自慢も、田舎の僻みも関係なく、森鷗外はたいしたものだと思うようになった。いまも、同郷という意識はない。同じに考えることがそもそも無理なのだ。

わたしは、鷗外の作品に夢中になったが、中でも『舞姫』のような文語体の作品に酔った。筋書きもさることながら、その音楽的美しさに心を奪われた。音楽だから何度読んでもいい、はじめは気づかなかったことにも気づき、読む度に深い所がわかってくる。わたしは次第に文語文を探して読むようになった。

『即興詩人』は、そうして出会い、ついにわたしが無人島へ流されるときに持って行く一冊になった。これさえあれば、失恋、遠島など、どんなに寂しいときでも心が満たされる。だから人にすすめているが、惜しいことに文語体の時代は遠くなってしまった。

わたしも遠くなった人間だが、漢文や、文語文の特訓を受けたことはなく、漢詩は読み下し文がなくては読めない。もちろん文語の専門家ではない。思いあたるのは子どもの世界が文語体的であったということはある。唱歌の「我は海の子」「箱根の山」などが文語文の入り口だったかと思う。

明治に、言文一致の文学運動があったというし、いまや口語体の時代なんだから、文語体を言いつのるのは確かに時代錯誤ではある。それでも文語文が好きだから、不遜にも『青春の文語体』(筑摩書房)という本を書いてしまった。知る人ぞ知る、文語体とは、かつて青春の香りにつつまれていたのだ。

あ、忘れぬうちに書いておこう、あの本の中に、陸奥宗光の『蹇蹇録』を入れるべくして忘れた。日清戦争の回顧録で、涙無くしては読めぬ感動の名著である。昔の政治家には、こんな名文を書ける教養人がいたことだけでも知っておいてほしい。いまでも岩波文庫で読めるのだから。

実は、鷗外の次に永井荷風が好きだから、今回は『即興詩人』の代りに部分を掲げようと思ったのに、『断腸亭日乗』の下巻が見つからなくなった。どこかにあるのだが探すのが大変なので買いに行ったら、品切れで上巻はあるが下巻がない。ぼやいていたら、平凡社の山本明子女史が「あります送ります」と言ってくれた。わたしは、またしても、安心してその文語文の音楽に酔っているのである。

日記だし音楽だから、どこを読んでもいいし面白いが、たとえば昭和十七年四月二十六日などはどんなものだろう。

「昭和十一年二月廿六日朝麻布聯隊叛軍の士官に引率せられ政府の重臣を殺したる兵卒はその後戦地に送られ大半は戦死せしやの噂ありしが事実は然らず。戦地にても優遇せられ今は皆家にありといふ。……(以下は本を読んで頂きたい)」

文藝春秋・編