あなたにとって、生きがいと呼べるものは何でしょうか。趣味でも家族との時間でもなんでもよいのですが、生きがいを持っている人は充実した人生を送れることでしょう。しかし、そもそも「生きがい」とは、いったい何なのでしょう? 今回は、小川仁志氏の著書『60歳からの哲学 いつまでも楽しく生きるための教養』(彩図社)より、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(前384~前322)が生きるための究極の目的として唱えた「エウダイモニア」という概念を通して、「生きがい」について考えます。
老年期の生きがい
もちろん、人生のどこかの時点で生きがいが変わるということはあり得ます。その場合はまた最上のものを手に入れなければなりません。
そうするといかにもきりがないようにも思えますが、そう簡単に上位のものが見つかるようなら、それはまだ生きがいとして完成していなかったのかもしれません。にもかかわらず、それこそが生きがいだと思い込んでいたのでしょう。だからよく吟味する必要があるのです。
本当にそれが自分にとっての生きがいなのかどうか。その見極めは難しいですが、アリストテレスが時間に関していっていることが一つヒントになります。
閑暇とは時間的余裕のことです。ここからわかるのは、「生きがいを見つけるのには時間がかかる」ということでしょう。時間をかければ、吟味する時間も増えます。他の刹那的な幸福と比較しながら、本当にそれが究極のものなのかどうか見極めることができるからです。その時は幸福だと思えたことも、後から考えたらそうではなかったという経験を誰しも持っていると思います。そんな中で揺らぐことのない幸福があることに気づくのです。
もちろん、それが永続するという意味ではありませんし、その必要もないでしょう。生きていれば価値観や自分を取り巻く状況も変わってきますから。その意味で、人生において生きがいが何度か変わるのは仕方ないように思います。
少なくとも、若いころと老年期では違ってくるでしょう。
若いころは人生の先が長いですから、必然的に生きがいは夢と重なってきます。何かを成し遂げることが生きがいになるのです。
これに対して、老年期は若いころに比べるとやれることに制限が出てきます。そうすると、他者に対する希望が生きがいになってくるのです。とりわけ次の世代に対して期待することが喜びであったり、目標になることがあるといえます。孫の成長が生きがいだというお年寄りの声をよく聞くのはその証拠です。ここには自分から他者への転換が見られます。
実はアリストテレスも指摘していることなのですが、エウダイモニアとは決して利己的なものではないのです。老年期に至らずとも、そもそも共同体に生きる私たちは、自分の幸福を他者の幸福と結びつけています。いや、結びつけざるを得ないのです。
はたして不幸な社会で自分だけが幸福でいられるでしょうか? 貧困に喘ぐ人たちや、戦争で傷つく人たちがいる中で、自分だけ幸せだと喜んでいられるでしょうか? そう、本当の生きがいとは社会的なものなのです。
皆さんも、世の中にかかわり、世の中の役に立った時、そうした生きがいのようなものを感じたことがあるのではないでしょうか。社会から恩恵を受けて生きてきた老年期の人の多くが、きっとそう思っていることでしょう。だからそういう人たちにとっての生きがいは、社会を少しでも善くすることにつながっているのだと思います。
引退して暇だから地域のボランティアをやるわけでも、年を取って人格者になったから公益に関心が出てくるのでもありません。長く生きると、世の中に貢献することが生きがいになっていくものなのです。
小川仁志
山口大学国際総合科学部教授
哲学者