「エウダイモニア=生きがい」を手に入れる

したがって、生活の場面に応じて、こうした快楽を手に入れることができれば、誰しも幸福感を覚えることが可能だということになります。

しかし、そうした生活で得られる快楽はあくまで刹那的な幸福であって、生きがいとは異なります。快楽は永続するものではありませんし、仮にそれが永続したとしても、本当にそれだけで生きる値打ちを感じられるかは別問題だからです。

逆にいうと、快楽が永続し、その快楽の永続こそが生きる値打ちだと心から思えれば、それはその人にとっての生きがいになるといえます。でもそれは、あくまでその人にとっての生きがいです。一般的にこれが生きがいだと定義するわけにはいかないのです。

そこで参考になるのが、アリストテレスが快楽と比較して論じている重要な概念、エウダイモニアです。この語も幸福と訳されますが、先ほどの刹那的な幸福とは質の異なるものだといっていいでしょう。アリストテレスはこういっています。

残された仕事は幸福に関する概観である。われわれは、事実、これをもって人間万般の営みの究極目的となしたのであった―。(前掲書、下巻P218)

食べるのは健康のため、健康は好きなことをするため、好きなことをするのはいい人生を送るため、いい人生を送るのは……。そんなふうにさかのぼっていくと、究極の目的が見えてくるのではないでしょうか。何から始めるにしても、最後は同じところに行き着くはずです。それがエウダイモニアにほかならないのです。だからそれはもう生きるための究極の目的であり、値打ち、つまり生きがいだといえるわけです。

エウダイモニアを生きがいと訳すのは無理があるかもしれませんが、実質的にそのように解することができるということです。こうして比較してみるとわかると思いますが、幸福にはランクがあるのです。これがあれば幸せと感じたとしても、その上にさらに上位の幸福がある場合は、その幸福を手に入れない限り幸せになれません。

その上位の幸福が何に当たるのかは人それぞれですが、自分がそう感じてしまった以上、生きがいを覚えるためにはそれを手に入れる必要があるのです。そしてもうこれ以上はない、これが最上だと思えれば、その人は生きがいを手に入れたことになります。

生きがいを手に入れた人は、いや正確にいうと自分にとって何が生きがいなのか気づいた人は、多少のことで一喜一憂せずに済みます。つまり、生きがいを手に入れた人は、周りの環境に踊らされることがなくなるということです。いわば主体的に生きていくことができるのです。人がなんといおうと、何が起ころうと、自分はこれを追求していく、あるいはこれを大切にして生きていくと思えるのですから。

私も哲学をすることが生きがいだと気づいた瞬間から、ようやく自分らしく生きることができるようになりました。30代半ばのことでした。以来、幸福な毎日を過ごしています。