「命だって『借りもの』」…いつかお返しする日まで、有意義に使い切る

それは、親からの最高の「プレゼント」

「私は親から何ももらっていない」「親から相続されるものなんか何もない」と不満を漏らす人がいます。とんでもない勘違いをしている人がいるものだと、私は半ば呆れながら言います。

「冗談を言っちゃいけません。命をもらっているではないですか。最初のいただきものは、あなたのその命でしょ。その命のおかげでいろいろなことができるんですから。親から何ももらっていないなんて、親に失礼ですよ」。

子どもを持ちたい親にとって、子どもは当たり前に生まれてくるのではなく“授かりもの”、あるいは“預かりもの”という意識があります。天か神か、あるいは自然の力かわかりませんが、人知を超えた力によって生まれてきてくれたと感じるのです。

そして当の私たちも、自分の都合で生まれてきたわけではありません。人の誕生は、本人の都合が介在する余地のない現象です。「どういうわけだか、この親の間に、この時代に生まれた」という意識が私にはあります。おそらく、死が近づけば「どういうわけだか、この世とおさらば」と思うでしょう。

授かった命を返すのですから、命は「借りもの」とも言えます。有意義に使い、きれいな心にして返したいものです。

「物、物、物……の生活から脱却を」…飾らないことが、本当の「極楽」

「何も身につけていない」から、自由になれる

仏さまはあまたいらっしゃいますが、多くはご自分の浄土(世界)を持っています。大日如来は密厳浄土、薬師如来は瑠璃光浄土、観音さまは補陀落浄土という具合です。

これら数ある浄土の中で最も有名なのは、阿弥陀如来の極楽浄土でしょう。私が住職をしているお寺には阿弥陀さまの仏像はないのですが、そんな私でも、「極楽、極楽」と言ってしまうことがあります。

夜、暖かい湯船に身を沈めたときです。あるとき、どうして「極楽」と言ってしまうのか考えたことがありました。そして、何も身につけていないことに気づいたのです。無防備ではありますが、衣服という飾りをつけていないのです。そこから私が至った一つの結論は、飾りのないことが“極めて楽な状態“ということでした。張り子の虎のように虚勢を張るのではなく、素の自分でいることで、心が自由になります。

また、自分を飾っている“物”の存在も忘れてはいけません。自分の所有している物には、自分の心が投影されます。物とつながった心の糸をしまいおさめて、物、物、物……の生活から脱却すると、心の飾りも取れて楽になります。

名取 芳彦
住職