「幸も、不幸も、あって当たり前」…すべては「あなたの都合」次第

「あの人は幸せそうでいいなぁ」と思ったら―

私たちにネガティブやマイナスの感情が起きるのは、自分の都合通りになっていないときです。「苦=自分の都合通りにならないこと」は仏教以前のインド哲学で解明された定義ですが、いつの世にも通じる真理でしょう。

言いかえれば、私たちは自分の都合通りになってさえいれば幸せで、不幸を感じるのは自分の都合通りになっていないから、ということになります。ですから、自分に都合(願い)がある限り、幸も不幸もあるのは当たり前なのです。

「あの人は幸せそうでいいなぁ」と、うらやましがっている場合ではありません。幸せかどうかは本人が決める問題で、他人が決めるものではないからです。“あの人”は“あの人の願い通りになっている”から幸せそうなのか、単にあなたの価値観に合わせると幸せそうなのかをチェックする余裕は持っていたいものです。

自分の都合が自分の努力で実現可能なら努力すればいいのです。しかし、自分の努力だけではどうにもならないと思うなら、自分の都合を少なくするよう努めるしか、幸せになる方法はないでしょう。

「『あきらめる』と、人生は驚くほど好転する」…どんな物事にも、その「覚悟」を持つ

「あきらめる」とは、「明らかにする」こと

何かを諦めるのは不甲斐ない、情けないと思っているなら、それは間違いです。

「あきらめる」を辞書で引くと、最初に【明らめる】と出てきます。意味は(1)明るくさせる(2)事情などをはっきりさせる。次が【諦める】で、(「明らめる」の(2)の意から)思いきる。仕方がないと断念したり、悪い状況を受け入れたりするという意味。

ですから、断念するという意味の「諦める」には、朝に明るくなって景色がはっきりするように、事情をはっきりさせた上で思いきる覚悟が必要です。「諦」は「つまびらかにする、明らかにすること。仏教語では真理。また、真理をさとる」という意味で、マイナスの意味は微塵もありません。

このように、事実関係や事情を明らかにした上で諦めるなら、むしろそれは理に適っているのです。途中で嫌になったから、人から言われたからやめるなど、事の真相を明らかにしないまま投げ出すのならともかく、「こういう事情だから、やめる」と納得して諦めるなら臆することはありません。

「あきらめる覚悟」を持って物事に向き合えるようになれば、人生は驚くほど好転していきます。

名取芳彦

住職