病気によって精神が解放される

ニーチェが指摘しているのは、病気になったことには意味があるということです。

でも、彼にいわせると、病気にはもっと積極的な意義があります。なんとそれは精神の解放です。ニーチェは長年自分を苦しめてきた病気に感謝さえしているのです。

重い病衰の時期がもたらした収穫は、今日なお私には汲みつくせないほどのものだが、そういう時期に感謝の念なしに別れを告げたくない私の気持ちは、おわかりだろう。(『悦ばしき知識』ちくま学芸文庫、P12)

重い病気の時期がもたらした収穫とは何か? ニーチェは普通の人ではありませんでした。いわずと知れた哲学者です。そんなニーチェにいわせると、哲学者とは霊と肉とを分けることができない存在なのです。つまり、肉体と精神は一体化しており、思考は肉体から生じるというわけです。

快適な時は明るいテーマについて思考するでしょうし、苦しい時はそれが原因となって、苦しさをテーマにした思考を行います。

ニーチェは生を重視した哲学者でした。生の哲学の先駆者とも称されるほどです。だから抽象的な思考にはなんの意味もないと考え、人生の中で私たちが経験する現実を重視したのです。そうして現実について考える機会を持てるということが、まさに重い病気の時期がもたらした収穫にほかなりません。

ニーチェの哲学が人気なのは、そのリアリティにあります。難しい表現を使っていても、そこには必ず現実が透けて見えます。すべてが人間ドラマなのです。生まれてきて、年老いて、病気になり、やがて死んでいく。生老病死というドラマ。

現に彼は、人は病気無しで生きられるのかとも問うています。もちろん答えはノーです。人間は必ず病気になります。時に病気は大いなる苦痛をもたらすのです。その大いなる苦痛こそ「精神の最後の解放者」であると喝破するのです。精神を本物にするということでしょう。

言い換えると、人生に正直になるということかもしれません。ニーチェ自身は「われわれを深める」と表現しています。

重い病気になった時、人は本当に大事なものだけに向き合おうとします。なぜか? それは死に直面するからです。どんな病気も、その先で死につながっています。風邪だってこじらせれば死に至ります。ほんの少しのきっかけで、私たちは死へと追いやられる可能性がある。それはあのコロナ禍を経験した人間であれば皆、肌感覚として持っている実感だと思います。だから私たちは、人生を見つめ直し、本当に大事なものを見極めようとするのです。それは必然的に私たちの思考を深いものにし、人間性を深める結果となります。

ニーチェのいう「われわれを深める」とはそういうことなのではないでしょうか。これはいくつになっても同じだと思います。年を取って病気をした時は、なおさら死と結びつけることが多くなります。でもそれは決してネガティブなことではなく、自分を深めることになる。そう思えれば、病気になったことを悔いるより、もっと前向きに与えられた時間を濃密に生きることができるのではないでしょうか。

病魔に襲われ、55年という決して長くはない人生を濃密に生ききった偉大な哲学者ニーチェと同じように。これから次々と襲い掛かってくるであろう病気を前に、心の準備はできたでしょうか。ニーチェが教えてくれるのは、病気の治し方でもなければ、我慢の仕方でもありません。あくまで病気の最高の活かし方なのです。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者