ヒトラーのポーランド侵攻により始まった「第2次世界大戦」。世界一の経済大国・アメリカの介入で、早々に勝敗が見えていたこの戦争の終盤に、日本は真珠湾を攻撃し、「アジア・太平洋戦争」を開戦します。状況的に「不要」だったこの戦争を、日本が始めた要因とは? 立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より見ていきましょう。
「インドシナへの進駐」がアメリカの怒りを買い〈石油禁輸〉に…窮地に陥った日本が、アジア・太平洋戦争という「最も厳しい道」を選択せざるを得なかったワケ【世界史】
情報網から外された日本は、「複雑怪奇」で内閣総辞職
ヒトラーは1939年5月、ムッソリーニと鋼鉄同盟を結びます。ドイツとイタリアの連帯は強化されました。ヒトラーはさらに8月、独ソ不可侵条約を結びます。
日本はあっけにとられます。日本は1936年にドイツと日独防共協定を結び、ソ連を封じ込める約束をしていましたから。国際連盟を脱退した日本には、ドイツとイタリアくらいしか仲間はいないというのに、仲間の情報すらろくに入ってきません。外交力の低下です。
ときの平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇なり」という声明を出して、総辞職しました。ヨーロッパの情勢がわからないという理由で総理の座を投げ出したというのですから、びっくりですね。
ヒトラーのパリ進軍を見て参戦する、イタリアのリアリズム
1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻します。ドイツ軍は再軍備を始めてからわずか4年ですから、十分に準備ができていません。それでもポーランドには勝てました。英仏もとうとうヒトラーに宣戦布告しました。第2次世界大戦の始まりです。
この時点で、英仏が総力を挙げていたら、ナチス・ドイツは終わっていたかもしれません。しかし、英仏もまだ本腰が入りません。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは半年ほどかけて必死に準備をして、1940年5月、フランスを攻めます。ヒトラーは電撃戦でフランスを押し込み、パリに進軍します。それを見ていたムッソリーニのイタリアが参戦します。イタリアはなかなか賢いところがあって、いつも戦争に入るのは遅くて、出ていくのは早い。リアリズムの国です。
1940年9月、日独伊三国同盟が結ばれました。
ロンドン空襲を迎撃したのは、亡命してきたポーランド人だった
ヒトラーは、フランスを降伏させました。フランス中部にドイツに協力するヴィシー政権ができます。
しかし、大英帝国に攻め入るだけの海軍を、ヒトラーは持っていません。そこで、飛行機を飛ばして、がんがん攻めます。1940年7月に始まった「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空爆です。けれど、爆撃機の航続距離が長くないので、ロンドン上空にいられるのは30分ほどでした。だから、ロンドンの人たちは頑張り続けることができました。
面白いことに、ドイツ軍の飛行機を迎撃した大英帝国の空軍のパイロットの半分はポーランド人だったそうです。ドイツに攻め入られたポーランドの人々が亡命してきて、仕返しをしたわけですね。大英帝国は、使えるものは徹底的に使います。