第1次世界大戦は、工業生産力の高いアメリカの参戦と、スペイン風邪の流行により終結しました。結ばれた講和条約の内容はどのようなものだったのでしょうか。終結後の各国の動きを見ていきましょう。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より解説します。
ウィルソン大統領の理想を、リアリストの英仏首相が打ち砕く
第1次世界大戦が終わり、パリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ体制が始まります。
講和会議を仕切ったのは、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンと大英帝国の首相ロイド・ジョージ、フランスの首相ジョルジュ・クレマンソーの3人でした。
ウィルソンは理想家で、「こんな戦争はもう二度とやったらあかん」「国際連盟をつくらないとあかん」と、熱く主張します。フランスのクレマンソーは筋金入りのドイツ嫌い。このチャンスにドイツが二度と起き上がれないように痛めつけてやろうと手ぐすねを引いています。理想もへったくれもないリアリストです。ロイド・ジョージは、英国人らしい現実主義者ですから、クレマンソーにつきます。
このような構図で始まったヴェルサイユ体制はどうなったでしょうか。
国際連盟は発足しましたが、ウィルソンの主張は反映されていませんでした。そして提唱したはずのアメリカは上院が否決して、国際連盟に入りませんでした。
クレマンソーが欲を出した賠償金が、ヒトラーの陰謀論を生む
講和会議で、クレマンソーは欲を出し、ドイツに1,320億金マルクという賠償を課します。金マルクはドイツ帝国で使用された通貨で、1320億金マルクというと、当時の日本の国家予算のおよそ40年分です。今の日本の予算は100兆円くらいですから、40年分といえば4,000兆円。当時のドイツ国民1人に対して6,000万円以上の負担です。
最終的には、30億金マルクぐらいに減額されましたが、むちゃくちゃな要求です。
ドイツ国民は「おかしい」と激怒します。第1次世界大戦の戦況を振り返れば、アメリカ参戦で劣勢にはなったけれど、ドイツ国内に一兵たりとも敵兵は入れませんでした。ロシアには勝っていましたから、ドイツ国民にしてみれば「引き分けかな」というくらいの感覚です。最後は分が悪くなったにしても、「6:4」くらいの条件に落ち着くと見ていました。それが、蓋を開けたら1人6,000万円です。
これが、ナチス台頭の素地になります。パリ講和会議が開かれた年にドイツ労働者党が結成され、ヒトラーが入党します。ヒトラーは「ドイツは負けたのではない。ユダヤ人と国際資本の陰謀にはめられた」という理屈を展開して、支持を集めていきます。
民族自決のダブルスタンダードに、トルコのアタテュルクが抵抗
理想主義者のウィルソンは「民族はすべて自分の国をつくる権利がある」という「民族自決」の方針を打ち出します。その結果、ハンガリーやチェコスロヴァキアなど、新しい独立国が生まれます。オスマン朝と連合国が結んだセーブル条約では、クルド人とアルメニア人の独立も認められていました。
しかし、クレマンソーとロイド・ジョージが結託して、「民族自決は、負けたドイツとオーストリア、オスマン朝の領地、植民地にしか適用しない」ことにしてしまいました。大英帝国の生命線のインドも当然、独立できません。ダブルスタンダードです。
このダブルスタンダードに猛然と反対したのが、トルコのムスタファ・ケマルです。
第1次世界大戦後、アンカラで政権を樹立したケマルは、クルド人やアルメニア人の独立を実力で阻止し、トルコの一体性を守ろうとします。英仏は、これをトルコの内政問題として不問に付しました。ケマルはケマル・アタテュルク(トルコの父)と呼ばれ、トルコの英雄になります。しかし、今日も続くトルコのクルド人の問題は、ここから始まっているのです。