「サラエヴォ事件」を引き金に、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争となった「第一次世界大戦」。渦中にあった大英帝国が、戦時下におこなった外交政策が、今日も紛争が続いている中東問題を引き起こす原因となります。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、詳しく見ていきましょう。
大英帝国の「三枚舌」外交が、中東に禍根を残す
ドイツに苦しめられた大英帝国は、「三枚舌」外交に出ました。ユダヤ人の大富豪ロスチャイルドには「戦争はお金の勝負です。だから、お金を出してください。そうしたら、パレスチナにユダヤ人の国をつくってあげます」と約束しました。「バルフォア宣言」です。
しかし、その一方で、フランスには「戦争が終わったらシリアをあげる」「パレスチナは国際管理地にしよう」と約束していました。「サイクス・ピコ協定」です。
そして大英帝国は、アラブの人たちとも、往復書簡で「フサイン=マクマホン協定」を結んでいましたよね。この協定に従って、アラビアのロレンスは、アラブ人と一緒にシリアのダマスカスに入りました。
同じ土地を三者にあげると約束したわけですから、三枚舌です。学者のなかに、アラビア半島やパレスチナ、シリアの地図を精緻に読み込んだら、「この三枚舌は成立する」という人もいるのですが、どう考えてもおかしいです。
第1次世界大戦の終結後、フランスはサイクス・ピコ協定に従って、シリアを手に入れます。シリアに入っていたアラブ人は、突然「ここはフランスのものだ」といわれて激怒します。激怒したアラブ人をなだめるため、大英帝国は「じゃあ、イラクにアラブ人の国をつくってあげる」といいました。第1次大戦後、大英帝国はイラクとパレスチナを手に入れていました。イラクが建国されて、フサインの子どものファイサルがイラク国王になります。イラクの人たちにしてみれば、びっくりですよね。
今日の中東の混迷の原因のほとんどは、大英帝国の「三枚舌」にあると考えていいです。苦し紛れに、みんなにいい顔をしたからです。
アメリカ参戦で工業生産力の拮抗が崩れる
1916年の年末、ドイツが「もうしんどい。講和したい」と漏らしました。
それを受けて翌年、アメリカが「こんな戦争を続けていたらあかんで」と、仲介役を買って出ます。ところが、この申し出を英仏ロの連合国が蹴ります。「ここでドイツをやっつけないとえらいことになるで。やめられんで」と。
困ったドイツは、通商破壊作戦(無制限の潜水艦作戦)を始めて、連合国の船を徹底的に沈めます。アメリカはこれに怒って参戦します。
アメリカの参戦で、第1次世界大戦の帰趨は決しました。ドイツ組と大英帝国組の工業生産力は1:1で拮抗していましたね。それがアメリカの参戦で1:2強になるわけですから。
出口治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
名誉教授・学長特命補佐