19世紀後半、ナポレオン3世率いるフランスは、普仏戦争をきっかけに帝政崩壊の道を歩みます。一方、フランスの孤立化を図るドイツ帝国は、同じくフランスと対立するオーストリアやイタリアと手を組み、同盟を結びます。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、この時期のヨーロッパの覇権争いについて、詳しく見ていきましょう。
宿敵フランスに戦争で圧勝し、ドイツ帝国に多大な貢献を果たした“天才”宰相・ビスマルクだったが…“上司”である次の次の皇帝にあっけなくクビにされた、まさかの理由【世界史】
「ビスマルクの下で皇帝であることは困難である」
ビスマルクは外交の天才でしたが、大変わがままな人でした。自分が提案したことに対して、皇帝が決断を渋ると、田舎の領地に帰ってしまいます。皇帝が折れるまで2ヵ月でも3ヵ月でも引きこもっています。
ひどい部下ですね。
ヴィルヘルム1世は名言を残しています。
「ビスマルクの下で皇帝であることは困難である」
でも、誰よりもすごいのは、こんなわがままな部下でありながら、その能力を認めてずっと使い続けたヴィルヘルム1世ですよね。ドイツ帝国の幸運です。
外交を理解しないヴィルヘルム2世が「サンドイッチの具」にされる
そのヴィルヘルム1世が没すると、子どものフリードリヒ3世も即位してすぐ死去します。
そこでヴィルヘルム1世の孫のヴィルヘルム2世が即位しますが、このころからプロイセンはおかしくなります。ヴィルヘルム1世は「ビスマルクを大事にせんとあかんで」と遺言を残していましたが、ヴィルヘルム2世は我慢しきれず、即位から2年後の1890年にビスマルクをクビにします。
ヴィルヘルム2世には高度な外交が理解できませんでした。ビスマルクはロシアの南下政策を牽制しながらも、同盟や条約を結ぶことでなだめていました。そんなロシアとの関係を、ヴィルヘルム2世は、直情的に断ち切ってしまいます。
心配になったロシアは1894年、フランスと同盟を結びます。露仏同盟です。今度はプロイセンが、ロシアとフランスに挟まれ、「サンドイッチの具」になってしまいました。
出口治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
名誉教授・学長特命補佐