薩長も「開国・富国・強兵」に方針転換

日本では徳川幕府が倒れ、1868年、薩摩藩長州藩が中心の政治が始まります。

薩長のもともとの理念は「尊皇攘夷」でした。尊皇とは、要するに「昔の政治に戻る」ということで、攘夷は「外国人を見たら斬りつける」ということです。薩長では若手が実権を握っていましたから、血気盛んに攘夷を実践し、薩英戦争と下関戦争を引き起こしました。明治維新よりも前のことです。

これらの戦争で、列強にぼこぼこにされて、大久保利通伊藤博文は「攘夷はあかん」と悟ったわけです。「やはり阿部正弘は賢い」となって、「開国・富国・強兵」に鞍替えしました。けれど、すでに「尊皇攘夷で幕府を倒すんだ」と拳を振り上げてしまっていた手前、とりあえず幕府を倒しました。これが明治維新の実相です。

お金儲けに熱心だったナポレオン3世

ナポレオン3世は、社会主義と帝政が両立すると考えた不思議な人でしたね。皇帝になると、パリの町を美しくしようとオスマンという人を抜擢します。オスマンは、ごちゃごちゃしていたパリに広場をつくり、大きな道を通して、美しく整えました。皆さんがパリを旅して「きれいだな」と思うとしたら、ナポレオン3世とオスマンのおかげです。

ナポレオン3世はお祭り好きで、パリで2度も万国博覧会を開催します。そこでボルドーワインを高く売って、お金儲けをしようと考えます。高く売り付けるために、ボルドーワインを1級、2級と格付けしました。何も知らないお金持ちは、喜んで1級を買うと考えたのですね。これが、フランスワインの格付けの始まりです。商売熱心で、産業振興に力を入れたナポレオン3世の時代の1858年、スエズ運河会社が設立されました。

「密約」で始まったイタリア統一

サヴォイア家が治めるサルデーニャ王国の目標は、イタリア統一でしたね。この王国に、カヴールという賢い宰相が現れます。

カヴールはナポレオン3世の趣味を調べ上げ、貴婦人をパリに送り込みます。「お金をたくさんあげるから、パリの社交界で遊んで、わかったことをときどき連絡してね」という約束です。狙い通り、ナポレオン3世はすぐに彼女をガールフレンドの一員に加えます。ナポレオン3世の情報は筒抜けです。

カヴールは、ナポレオン3世と密約を結びます。「イタリア統一に協力してね。その代わり、ニースとサヴォイアをあげるから」という内容です。イタリア統一の最大の課題は、オーストリアからヴェネツィアとロンバルディアを奪うことでした。カヴールはフランスと組んで、オーストリアをやっつけようと考えたのです。

こうして1859年、イタリア統一戦争が始まります。サルデーニャは連戦連勝します。これに脅威を感じたナポレオン3世は、オーストリアと単独で講和してしまいます。はしごを外されたカヴールは激怒しますが、我慢しました。ヴェネツィアはいったんあきらめ、ミラノを中心とするロンバルディアを得て、矛を収めます。

しかし、ここで中部イタリアの各都市が、サルデーニャ王国に仲間入りしたいと表明します。さらにガリバルディという人が勝手にシチリアに上陸し、ついでにナポリも征服して、南イタリアをサルデーニャ国王に献上します。イタリアはナポレオン3世の思惑を離れて統一されていき、1861年、イタリア王国が誕生します。

この年、プロイセンでは、ヴィルヘルム1世が即位します。翌年、ビスマルクが首相になって、ドイツも統一に向かいます。


出口 治明

立命館アジア太平洋大学(APU)
名誉教授・学長特命補佐