幕末期、鎖国によって世界に遅れをとっていた日本は、ペリーの来航をきっかけに開国に踏み切ります。明治維新の立役者といえば、坂本竜馬が有名ですが、実際には、「明治維新の骨格のほぼすべてを構想した」別の人物がいた、と立命館アジア太平洋大学(APU)学長特命補佐である出口治明氏はいいます。出口氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、詳しく見ていきましょう。
坂本龍馬は実はたいして活躍してなかった!?…〈勝海舟〉を抜擢し〈明治維新〉を構想した、幕末期の“知られざるカリスマ”とは【歴史】
薩長も「開国・富国・強兵」に方針転換
日本では徳川幕府が倒れ、1868年、薩摩藩と長州藩が中心の政治が始まります。
薩長のもともとの理念は「尊皇攘夷」でした。尊皇とは、要するに「昔の政治に戻る」ということで、攘夷は「外国人を見たら斬りつける」ということです。薩長では若手が実権を握っていましたから、血気盛んに攘夷を実践し、薩英戦争と下関戦争を引き起こしました。明治維新よりも前のことです。
これらの戦争で、列強にぼこぼこにされて、大久保利通や伊藤博文は「攘夷はあかん」と悟ったわけです。「やはり阿部正弘は賢い」となって、「開国・富国・強兵」に鞍替えしました。けれど、すでに「尊皇攘夷で幕府を倒すんだ」と拳を振り上げてしまっていた手前、とりあえず幕府を倒しました。これが明治維新の実相です。
お金儲けに熱心だったナポレオン3世
ナポレオン3世は、社会主義と帝政が両立すると考えた不思議な人でしたね。皇帝になると、パリの町を美しくしようとオスマンという人を抜擢します。オスマンは、ごちゃごちゃしていたパリに広場をつくり、大きな道を通して、美しく整えました。皆さんがパリを旅して「きれいだな」と思うとしたら、ナポレオン3世とオスマンのおかげです。
ナポレオン3世はお祭り好きで、パリで2度も万国博覧会を開催します。そこでボルドーワインを高く売って、お金儲けをしようと考えます。高く売り付けるために、ボルドーワインを1級、2級と格付けしました。何も知らないお金持ちは、喜んで1級を買うと考えたのですね。これが、フランスワインの格付けの始まりです。商売熱心で、産業振興に力を入れたナポレオン3世の時代の1858年、スエズ運河会社が設立されました。
「密約」で始まったイタリア統一
サヴォイア家が治めるサルデーニャ王国の目標は、イタリア統一でしたね。この王国に、カヴールという賢い宰相が現れます。
カヴールはナポレオン3世の趣味を調べ上げ、貴婦人をパリに送り込みます。「お金をたくさんあげるから、パリの社交界で遊んで、わかったことをときどき連絡してね」という約束です。狙い通り、ナポレオン3世はすぐに彼女をガールフレンドの一員に加えます。ナポレオン3世の情報は筒抜けです。
カヴールは、ナポレオン3世と密約を結びます。「イタリア統一に協力してね。その代わり、ニースとサヴォイアをあげるから」という内容です。イタリア統一の最大の課題は、オーストリアからヴェネツィアとロンバルディアを奪うことでした。カヴールはフランスと組んで、オーストリアをやっつけようと考えたのです。
こうして1859年、イタリア統一戦争が始まります。サルデーニャは連戦連勝します。これに脅威を感じたナポレオン3世は、オーストリアと単独で講和してしまいます。はしごを外されたカヴールは激怒しますが、我慢しました。ヴェネツィアはいったんあきらめ、ミラノを中心とするロンバルディアを得て、矛を収めます。
しかし、ここで中部イタリアの各都市が、サルデーニャ王国に仲間入りしたいと表明します。さらにガリバルディという人が勝手にシチリアに上陸し、ついでにナポリも征服して、南イタリアをサルデーニャ国王に献上します。イタリアはナポレオン3世の思惑を離れて統一されていき、1861年、イタリア王国が誕生します。
この年、プロイセンでは、ヴィルヘルム1世が即位します。翌年、ビスマルクが首相になって、ドイツも統一に向かいます。
出口 治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
名誉教授・学長特命補佐