日産がルノーの軍門に下ったワケ

日産Z、スカイラインGT-R、180SXといった名車は、「90年代までに運動性能を世界一にする」ことを目指す日産の取り組み―「901運動」と呼ばれる―が実を結んだものだった。

続いて90年に登場した初代プリメーラは、ヨーロッパで通用するセダンとして開発され、イギリス工場から日本に逆輸入された。901運動は数々の名車を生んだが、国内首位のトヨタを突き上げるほどには、日産の売り上げに貢献しなかった。世界一の運動性能と言われても、車好きではない人はあまり興味がなかったのである。

苦境に陥った日産は座間工場と村山工場を閉鎖したが、状況は改善しなかった。日産ディーゼルをベンツに売却しようとし、あわよくばベンツとの提携を望んだが、すでに紹介したとおり、ベンツは土壇場で米クライスラーを選んでしまった。米フォードには資金があるが、マツダ再建のときと同様、アメリカ人社長を日産に送り込んでくる可能性がある。残るのは、ルノーだけである。

日産はルノーが申し出た金額の倍近い額の出資を要求したが、ルノー(およびフランス政府)は国を挙げてこれを工面した。99年3月、ルノーは日産株36.8%を買収して経営権を握り、社長にカルロス・ゴーンを任命した。現在も続く、ルノー・日産連合の誕生である。ルノーは、かねてより弱かったアジア市場の攻略のため、日産を頼った。日産社員は当初、フランス語を習わされたとの話も聞く。
※ 日産とルノーは2023年11月8日、資本関係の見直しが完了し、ルノーが保有する日産株式43.4%を15%に引き下げ、相互に15%ずつ出資とし、両社が対等に議決権を行使できる新たなアライアンスへ移行したことを発表した。

ゴーンはレバノン系ブラジル人であり、子供のときにリオデジャネイロからベイルートに家族で移住した。技術者としてエコール・ポリテクニークとパリ国立高等鉱業学校を修了後、ミシュランに就職、欧州各地での生産管理を経て、故郷リオデジャネイロで南米事業の立て直しを任された。わずか二年でこれを終えると、北米ミシュラン社長に就任した。

当人いわく、このときにミシュラン・タイヤを履かせた日産Zに乗っていたのが、日産との縁である。この頃にはすっかり「コスト・カッター」の異名が定着し、91年に民営化したばかりのルノーの合理化のため、96年に副社長に迎えられた。

ゴーンは日産リバイバルプランに基づき、「部品をグローバルに調達する」との掛け声の下、それまでの系列取引を無視し、大ナタを振るった。日産を破産直前からわずか2年で立て直したゴーンを、米『ニューヨーク・タイムズ』紙は「ミスター修理屋」と呼んだ。

徹底したコスト削減と社員のリストラが進むなか、2003年、静かに役割を終えた車があった。日産プレジデント(3代目)である。正確には、03年以降もプレジデント(4代目)は生産・販売された。

しかしそれは「プレジデント」とは名ばかりの、シーマと多くの部品を共用する代物だった。1965年以来続いた日産の旗艦の血統が、3代目プレジデントで途絶えた。「不沈艦」時代の、最後の大将旗だった。そして2010年、姉妹車シーマのモデルチェンジと共に、プレジデントの名前も消えた。

ゴーンはその後、イギリス工場に納品するイギリス製の現地部品をルノー系列にすり替え、コスト削減を終始徹底したため、イギリスと大陸側の諸国の間に亀裂が入った。イギリスのEU離脱の是非を問う2016年6月の国民投票において、工場の立地するサンダーランド選挙区で61%の有権者が「離脱」に票を投じた。


鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表